日本明慧


二人の姐さんの正念を持って難を乗り越えた後の恐怖心についての認識

文/大陸大法弟子 浄心縁

【明慧ネット8月4日】最近、馬さんと朱さんと言う二人の姐さんが、毎日市内の公園で観光客たちに法輪功の迫害されている真相を伝えており、たくさんの人々が法輪功が汚され、迫害されている真実を分かるようになった。

ある日、馬さんが一人の女の人と話すと、彼女は医者だと分かった。しかし思いもよらないのはその医者が「法輪功」という三文字を聞くと、気分が激しくして、大きい声で遠くないところにいる保安員に「保安、保安、ここに一人の法輪功がいる」と叫んだ。何人かの保安たちが聞くと、すぐきて馬さんを掴んで、早くパトカーを呼んで、強行に馬さんを連れて行った。そのとき近くにいた同修の朱さんがその一幕を目の当たりに見た。彼女は沈着で正念を発し邪悪を排除していた。それから、電話でその情況を馬さんの家からいちばん近い同修に巧妙に伝えた。その同修は馬さんの家族に大法の資料を適切にかたづけて思わぬ事態の発生に備えようと直ちに知らせた。

馬さんが邪悪な警察に非法に一夜拘禁された。彼女は徹夜で正念を発し邪悪を取り除き、警察の非法な要求にすべて協力しなかった。翌日、邪悪な警察は果たして馬さんの家を差し押さえた。しかし何も手に入れなくて、仕方なしに釈放する他なかった。それで、馬さんは平安に家に帰った。

一方、朱さんが依然として毎日公園で真相を伝えている。またある日、彼女が一人の伯父さんに真相を伝えているとき、二人の私服の警察が隅からよってきた。その中の一人の私服警察がその伯父さんにさっきこの人があなたに何を話したかと怒声でとがめた。伯父さんは平静にその二人の私服の警察を見て、「このお姐さんが座ったところで、まだ何も話さなかったと答えてから立ち去った。その警察はやむなく強行に朱さんを公園の保安当番の部屋に引っ張って行き、そしてパトカーを呼んできた。その間に、朱さんはずっと警察に辛抱強く善をすすめ、彼らに良心を持って自分の行為がいかに悪いかとよく考えることをさせた、その上、公園で自分の見方を議論するのは公民の基本の権利で法律を違反することではない、かえってあなたたちが勝手に人を捕まることは本当に始めて罪を犯し、法を犯すことだ、あなたたちは真の善悪の是非がはっきりと分かるようにと告げた。
 朱さんが非法に留置される間に、ずっと正念を発し邪悪を取り除き、署名と写真を撮られることを拒んだ。警察は仕方がなくて、朱さんの職場の責任者を呼んで来た。彼らたちは一緒に朱さんに人身を攻撃したり汚したり罵り散らしたりしても、そして大法を謗っても、朱さんは平静で彼らの演ずるあいだに、その機会にその場にいる全員に真相を伝えた。愚かにも警察らは施すすべもなく、朱さんに正々堂々と派出所から出させることをさせざるを得なかった。

同じようなことは私たちの周りのたくさんな同修たちも皆遭ったことがあり、大法のネットにもたくさん報道したことがある。ある同修は遭遇した難がちょっと大きい、ある同修はほとんど遭わなくて乗り越えて来た。真相を伝えるとき厄介なことに遭う可能性が大きいので、多くの学習者たちは真相を伝えるの間に多少とも恐怖心に妨害されており、いままで恐怖の状態から乗り越えて来ることもできない。こう言う問題がまた緊迫していると思っている。

多くの同修たちはいつも常人の考え方で問題を考えることが好きである。ある学習者は家族が彼の大法を修煉することに反対するので、ただ外へ行って自分の観点を受け入れる人を探して真相を伝えることを好み、職場で監視される形勢は切迫するので別のところで真相を伝える。いつもどこの人が彼を受け入れ易いとそこで説明に行った。激しく反対する人に会えば伝える根気がなくなった。自分の心になんの問題があるかを探さず、どうやって知恵を持って真相を伝えるかを考えなかった。時々家族や職場のリーダーに反対されるのを心配するあまり、家族と職場のリーダーを避けてこっそりと他人に伝えた。真相を多く伝えたのにまだ問題はどうだろうか? まだあって、解決していない。自分の環境がまたよくないがそれぞれ人が自分の道を自分で歩むと強調している。そのとき冷静にして法を学ぶべきではないか、真相がこんなに多く伝わったのに、なぜ自分の環境はそのままで、まだよく変えていないと考えるべきである。時々大法についての仕事をするとき家族に隠れてやり、あるいは修煉していない人の考えのようにする。職場の監視が厳しく、家族が心配しすぎであることに対して、まさか私たちが黙々として認めることはあるまい。自分が本当に根本から彼らに関心を持っているだろうか。なぜ自分が正々堂々と大法を修煉することや、公明正大で真相を伝えることができないのか。真、善、忍を修めることは間違いないところである。自分が一体何を恐れるのか。自分を冷静にしてその問題をよく考えるべきではないか、法を学ぶとき自分の行為を対照していないか。真相をつたえるのは世の人々に真相を分からせることであるが他人が自分に賛同することではない。
 またある同修は自分の存在している人間の一面でやっている。彼はこう伝えたらわりに安全だ、こう伝えたら非常に危ないと思っている。人間の層の理が多く、経験がたくさんあるようだ。実は真相を伝えるにあたってどこで伝えても皆安全があり皆危険もある。人間のその面からいえば、私たちは安全な措置をとることを十分に注意しなければならない。しかし、その大前提を注意するのは法に対して責任を負い、同修に対して責任を負うことであるが個人の恐れかどうかの問題ではない。

しかし安全な措置がすべてに取って代わることはできない。恐怖心を持っているので、どの方法で真相を伝えても危険をあると感じている。常人が家にいても感電やガス中毒などのことを遭ったことがあるかもしれない、また入室して略奪する悪者に遭ったこと、こんなあんな危険に遭ったかもしれない。常人として、どこが本当に安全にできるか。ただ大法と師父に十分な正信を打ち立ててこそ恐怖心を取り除くことがはじてめできる。恐怖心を取り除くことは、私たち圧倒的多数の修煉者が必ず乗り越えなければならない関である。

現在真相を伝えることにおいて、私たちが家族に止められることに会っても、さらに悪い警察に会っても、悪人に会っても、それらは危険なことではない。本当の危険は自分が大法と師父に100パーセントの正念と正信を持っていないからである。これは真の危険である。実は修煉者にとっては、多く苦労をすること、厄介を多く解決することは、心を修め、自分を高めることに非常に有益なことである。私たちは現在の貴重な時間と、めぐりあわせを大事にすべきである。いったんその圧力のある形勢と劣悪で複雑な環境を失くしたら、このとき私たちは気持ちよく、気楽で、世人に歓迎され、称賛されて、なんと痛快だろうということになる。しかし、それは修煉しないことではないか、大法弟子の威徳を打ち立てられるであろうか。

恐怖心は、苦しみや疲れが怖い、面倒がる、自分が人間の中のものを他人に奪われるのを心配することから生まれるものである。本心から自分の心を修め自分の行為を正に是正したら、最も複雑な環境の中に自分を修煉し一切な不正の要素を正すことができるはずである。

本文は同修の不足の点を言ったが着想は非難ではなく、注意を与えることである。問題を提出して皆さんが見て取れば情況は違ってくるであろう。恐怖心の問題は国内の学習者の心中の際立った問題である。しかも大勢の人がまた平気で自分の恐怖心を持っている問題に直面できていない。これは同修たちの重視を引くはずである。

この問題を提出する目的は、有限の時間の中にすべての大法弟子の能力を最大に発揮でき、より多くの世人が救い済度され、自分が本当に修煉に向かうためである。