日本明慧


感情の困難を突破する

私は感情に関する試練では、良くやったと想っていた。それは私が再び恋に落ち、自分がまだ良く修煉出来ていなかったと気付くまでのことであった。ほんの少し前、私は再び感情の試練を経験した。過去には、私はそれに関しては良く出来て、再び同様の情況に出くわしても、問題ないだろうと想っていた。しかし今になって、現実はそうではないことが分かった。(もちろん大法は、弟子が恋に落ちたり、結婚したりするべきでないとは言わない。それは、私達に修煉において、常人社会に符合するよう要求する。しかしながら、修煉者として私達は、自分が執着しているかどうか、心で知っている。)

感情の試練に出逢う度に私は内面を見、問題の根源を見つけたといつも想った。しかしいつも問題の一部を見つけただけで、根源までは見届けていなかった。だから感情の試練が来る度に、何故同じ問題が又現れたのだろうかと、疑問に想った。毎回相手が異なるだけであった。ともかく自分が良く修煉出来ていなかったことを知り、再び想像の世界に生きた。その通り、私は想像の世界に生きていて、問題の根源を見つけたと想っていた。

ある日友人が、彼女の地域でも一人の同修が感情の試練に逢っており、その同修は自分の感情は、「名」を追求することと関係があることが分かったと言った。私は当惑した。何故感情と名が関係するのか理解出来なかった。それで私達は、話し合った。

情と名の関係は何か? その同修は、彼女が誰かに対し愛情を感じる理由は、彼女が表現した考えがその人の承認を得たことにあると言った。それで彼女は同意を得た後、名を追求し始めた。この追求が一度始まると、彼女はその人から大切な人と見られていると感じ、その人に対し情を感じ始めたのだった。これを聞いて私は、自分もこれと共通するものがあると感じた。実際私の名を求める心はかなり強い。私はしばしば自分の話術にプライドを感じた。私が出したアイデアは他を感銘させ、多くの賞賛を得た。賞賛は修煉者にとって一つの試練と見做すべきで、それは私の顕示欲への執着を暴く。

私は冷静になって、名を求める気持を内に探すよう、一生懸命努力した。探し続けているうちに私は、自分の過去のいわゆる良いアイデアが、単なる人間的観念であったことを発見した。それらは本当に私を喜ばせる価値があったのか? 友人やその他の人々が私を賞賛した時、私の名を求める心が刺激された。好きな人に会って、その人が私を賞賛すると私はとても嬉しく感じ、自分の想像の世界に住み始めた。それらをよく見てみると、皆人間的観念であった。私のアイデアがどんなに良くとも、私の話がどんなに説得力があろうと、それらは単に人間の次元の理である。人間の層の表面の向うに飛躍せずには、問題の原因を見付けることは出来ないだろう。これが私が突破出来なかったものである。今は見方を変えたので、感情に対し新しい考えを持つ。私は又、修煉者でさえ人間的観念を取除くのは、簡単ではないと気付いた。自分の思考が観念の一種であることに気付くのさえ難しい。私達修煉者は、全ての観念を突破し続けるべきである。感情も観念である。私達はまだ修煉途中であるが、問題に気付くことがなければ、簡単に観念に影響されるだろう。観念は人の思考に影響し、思考は人の行為に影響する。そして私が取除くべきものは、何層にも重なる、異なる観念と執着の根源である。

師父は私達を将来の覚者であると見做す。私達は自分の振る舞いと思考の標準を上げ続けるべきである。自分を人間の最高の道徳基準をもって測るなら、それは人間に要求される人間の理に符合するだけである。覚者はどうだろうか? 覚者の振る舞いと思考は、断然人間のものより更に高い所にあるべきである。このように、感情問題に立ち向かった時は、私はもっと理智をもって考えるべきであった: 何故法輪大法の修煉の路に入ったのか? 私は自分に厳しく要求して執着を放下し、自分を常に修煉者として見做して来ただろうか? 私は修煉と衆生済度に全力を尽して来ただろうか?

2003年8月17日