日本明慧


仕事であるのか、済度することであるのか?法を証明するのか、それとも自我を証明するのか?

【明慧ネット月10日付】家を失い流浪の生活をするようになってから、あっという間に1年が経ちました。振り返ると、学習者と共に生活をしていたこともあり、このような環境は、精進を速め、法理上の認識、心性の面における昇華をもたらしてくれました(過去の自分との比較です)。しかし、法を正す時期の要求には、ほど遠く、さらに心性において向上しなければなりません。この1年間における体験や教訓及び悟ったことについて、述べてみたいと思います。

流浪の生活をするようになって間もなく、大法の資料管理所へ行く機会がありました。そこで、多くの精進に励んでいる学習者と知り合いましたが、彼らは以前家にいた時に接していた学習者とは、修煉状態が違うということに気が付きました。常に法理の上にあり、他人を優先させるという基点に立って考えていました。修煉の中で何をするのにも、自分が何よりもという自分の私心がよく分かりました。また、彼らの正念と正しい行いにより、わたしの正念も影響を受け、強化されていくのが分かりました。家にいた時分は、精進していたとも言えず、“正念”に対しても深く認識してはおらず、実践においてはなおさらでした。自分がかなり速い速度で、昇華していると感じていました。

自分の心性や境地が昇華するにつれて、様々な大法に関する仕事が増えてきましたが、按配もあって、うまく対処することが出来ました。ところが、この仕事を遣りながら、他の仕事も遣りたいという心が生じ、仕事が中心となってきました。更に、ほめ言葉、おだての言葉が、耳に入ってきますと、歓喜心、顕示欲、利己心及び名利を求める心まで生じてきてしまいました。結果として、いい調子になり、内に向かうことも疎かになり、法を学ぶときも、集中出来ない状態となってしまいました。転法輪の中には、「若者が自分を制御するのは、なおさら難しいことです。日頃はなかなか良い人で、常人社会で大した能力を持たない時は、名利心にも淡泊でした。いったんまわりから抜きん出ると、名利に惑わされやすいのです。」と書かれています。この様なわたしの状態は、大法を証明することに、基点を置いているというより、自己を表現したいという方が、むしろ相応しいかもしれません。

ある日、資料を届けに行った帰り、学習者を捕らえようとしている警官に遭遇したのですが、すばやくその危険から脱することが出来ました。その時、このような事が、起こったということは、何らかの不適なところがあり、自分の空間場が純正ではないからではないか…と思いました。しかし、内へ向かって深く探すことをしなかったため、根本的な心性上の問題を見つけるに至りませんでした。結局、重視することなく過ぎてしましました。

流浪の生活をはじめてからの1年間というものは、警察は親戚のところへ、わたしの行方を探りに行ったりはしませんでした。先の一件以来、警察は写真を持って、親戚の近所の人に対して事情聴取をしたり、親戚の家に立ち入り検査を行ったりしました。同時に、身の回りには厄介なことが多々起きてきました。そこで、これら一連の厄介なことの全ては、旧勢力によるものであり、全面的に否定しなければならず、より深く内へ向かい不足を探さなければならないということに、気が付きました。そうでなければ、一切を否定するといっても、単なる空論となることでしょう。

師父は、2002年米国フィラデルフィア交流会における説法で、「もちろん、全ての大法弟子は皆、旧勢力の按配を認めないと言っていますが、それは口で言うことではなく、大法、法を正すことの要求にしたがって行えば、歴史上按配した全てを認めず、旧勢力そのものをも認めないことになります。」と申されました。大法の仕事の後半において、ただ仕事をするだけで、修煉してはいなかったのです。かなりの期間、修煉は緩んだままの状態でした。確かに多くの仕事はしましたが、心性の面での向上は得られず、修煉を仕事として行っていたのでした。このように危うい状態にあったのでしたが、結局は、時が過ぎると内心に向かって探すことなく、またしても根本的な心性上の問題を見つけられませんでした。

その後、《週間明慧》の中の一通の文章を目にしました。その題名は、《危険を無事に乗り越えられても、内に向かって探すことを忘れぬ》でした。その文章は、わたしのことを言っているかのようでした。「危険があっても無事に解消したあとは、自分の正念がいかに強いか、あるいは師父が守ってくださったと思いこまず、直ちに内へ向かって原因を探すべきである。実は危険にあったというのは、自らの空間場が既に不純であるということの現れである。深刻な事態が発生するに至った後、重視したとしても、もう遅い」という様な内容でした。

ようやく真剣に内へ向かって探しだしたわたしは、あることに気が付きました。大法の仕事をする時の基点が、最初の基点とは明らかに違ってきていました。それは、自己顕示と自己表現の心の下において行っていたもので、真に慈悲を持って衆生を済度し、大法を証明する基点において行っていたものではありませんでした。この仕事はわたしがしたもの、わたしは大法のために行っていると思っており、なんと強い利己心であったことでしょうか。利己心や執着は、時として、非常に強く現れ、衆生を救い済度するという心は、きわめて薄かったのです。このような状態に慣れてしまっていました。これは師父が《理性》という経文で、教えてくださった「慈悲をもって法を広げ、人々を救い、済度します。」という要求と、なんとかけ離れているでしょう。この状態下で仕事をしても、ただ常人のことを遣っているだけに過ぎません。旧勢力は、まさにこの点を掴んで迫害を加えています…自己顕示への執着、名利を求める心など。旧勢力は、この点を口実として、大法の仕事を遣っていることを警察へと知らせたり、逮捕させるように仕掛けているのだと思います。

ある学習者が言った言葉が記憶に残っています。「名利を求める心の強い学習者ほど、邪悪に気づかれやすい」。その学習者が出しゃばったり、顕示しようとしたりするからいうことです。この言葉により、自分自身の修煉状態は、大法の仕事との繋がりが非常に緊密であるということが分かりました。師父がおっしゃったように、「このようにすると、自分自身も向上できないばかりでなく、大法にも損失をもたらしてきます」《米国フロリダ州での説法》。しかも、師父は最近の説法の中で、いつも自分自身の修煉の重要性について強調されてきました。ですから、何をするにしても、衆生を救い済度する基点に立つべきであり、自我に落ち込むことなく、静かに遣るべきことをやり遂げることが大切であると思います。

心性の修煉においては、自らに厳しく要求して、ますます純粋で清らかにしなければならないと決意しました。いかに強い人間であっても、心に邪悪が拡大し、利用される可能性があり、更に迫害を加えられるかもしれません。従って、修煉は執着も漏れもない状態にしなければならないでしょう。ところが、人心は複雑なものですから、知らないうちに、深く隠れている考えが浮かんで来ることがあります。漏れないように修煉しなければならず、邪悪の迫害から免れなければならない…(多少このような考えがあります)。このような考え方だと、修煉して執着心を取り除くということが、邪悪に迫害されないようにするためのものであるかのようです。こうしてしまいますと、修煉の基点が不純になると思います。「その心を是正しようとするには、その意を誠実にしなければならない」《中国法輪功》という師父のお言葉を思い出しますと、修煉の目的は純正でなければならず、求める心を抱いて修煉をしてはならないということを改めて思いました。

以前は、仕事にこだわる心については、なかなか正しく悟れませんでした。仕事にこだわる心が何であるかというのが分かりませんでしたが、いつも表面では大法を認識していました。大法の仕事を多く遣った学習者は、仕事にこだわる心が強くなり、大法の仕事を少なく遣った学習者は、仕事にこだわる心が弱いと、このように思っていたのです。現在は、このように理解しています。仕事を少なく遣ったというのも、仕事にこだわる心がないという訳でもなく、その出発点がどこにあるのかによるもので、つまり、基点はどこにあるのかということと思います。たとえば、ある学習者が大量の仕事を遣りましたが、この人は慈悲心から衆生を救い済度しようとしています。ところが、ある学習者は僅かしか仕事を遣らないのに、得意になり、自惚れるようになって、何か功績を樹立したかのように思っています。これは常としての心で仕事をする、仕事にこだわる心であると思います。同じ大法の仕事をするにしても、心性及びその境地はずいぶんかけ離れていることでしょう。師父は、「皆はこのことを行いたい熱意がなければならないが、出発点がこの法のためでなければならない。法を勉強し、法を得、そして法を広げ、更に人を済度するためのものである。出発点は私が何かをするためのものにしてはいけない」《法輪大法議解》とおっしゃいました。
 
以上、わたしの認識を申し上げました。ご意見ご指摘の程どうぞ宜しくお願い致します。