日本明慧


法を学ぶ目的は大法の仕事をよく成し遂げるためではない

文/大陸大法弟子

【明慧ネット8月22日】明慧ネットに、大法資料を作る同修の体験文がよく掲載される。中では、法をよく学んでこそはじめて真相を伝えることが順調に行えると特に強調されている。「私は法をしっかりと学ばないと、コピー機がよく故障するが、法をしっかりと学ぶと、コピー機が意外と順調となる。だからしっかりと法を学ぶことが重要だ。」と言った学習者がいれば、「私はこの数日間法を学んでいないから、外に出て真相を伝えることが出来ない、なぜなら邪悪に乗ぜられやすいからだ」と言った学習者もいた。これらの発言は一見筋が通っているように聞こえるが、よく考えると、これらにはやはり問題がある。なぜなら、これらの同修は既に法を学ぶことを真相伝えや資料作りの保証にしてしまったからである。

法を学ぶ基点に問題が生じたら、法を学ぶことが形式に流れる恐れがある。この点においての深い教訓があった:資料を作るある同修は作る資料が多くなるにつれ、歓喜心や顕示心が出てきて、法を学ぶ時間がなくなった。ほかの同修に注意されても受け入れなかった。体面のために、毎日二時間本当に学んだかどうかは別にしてとにかく毎日2時間法を読んだ。完全に法を学ぶことが形式に流れており、結局邪悪に捕まり、今までずっと監禁されている。

師父のわれわれに要求した三つのことは、どれも重要である。心を完全に法に置いて精進している弟子はこの三つのことを上手く成し遂げることが出来る。なぜなら、この三者は互いに関係しているからである。勿論、しっかり法を学べば資料作りと真相伝えをよく成し遂げることが出来るが、法を学ぶ目的と資料をよく作ることとは等しくない。われわれは問題を解決するための心を抱いて法を学ぶが、逆に、大法に同化する純粋な気持ちで法を学ぶべきである。

師父がこのようにおっしゃったことがある。「わたし達は修煉者が法を得て正果を得るようにさせることができるだけではなく、社会の人心を善に向かわせることもできるので、人類社会の安定に対して有益なのです。ところが、大法は人類社会の為に伝えるものではなく、皆さんが修煉して圓満成就できるようにするためのものです。」《修煉は政治ではない》(精進要旨)