日本明慧


忍が出来てない学習者へ建言

文/大陸の大法弟子

【明慧ネット8月31日】私はずっと“忍”がよく出来てなかった。自分に対して厳しく律することが出来ず、“忍”ができなかった時、悔しい気持ちでいっぱいでした。ところが、その根本的な原因がなかなか見つかりませんでした。振り返ってみれば、毎日法を勉強しているが、心は静かに勉強できず、形だけを気にして、法の勉強と実際の修煉の指導が結びついていなかった。他の学習者と交流する時さえ、違う意見があったら、自分の理ばかりを強調し、構わずに人と争っていた。私の様子を見て、“このままにしていたら、落ちってしまうのではないか”と心配した学習者もいた。他の学習者が法理に従って私に注意してくれましたが、私は聞く耳を持たず、自分が理に適っていると勝手に思っていました。今振り返って考えると、自分を修しておらず、他人の修ばかりを注意していた。

私はかつて数回他の学習者の代わりにその修煉体験を書いて明慧ネットに載せた。これによって、顕示心や歓喜心が生じて、魔に隙を狙われた。自分が大法の修煉者であることを忘れ、口を修することも気にしなかった。一人の学習者からこれを指摘された時も、自分はそれを認めなかったため、この学習者と徐々に隔たりができた。そして、指摘された彼女のミスばかりを気にして、彼女に怒る時も度々あった。自分は彼女よりよく修煉できていると思っていた。しかし、彼女は大法の仕事をたくさん担当していた。これに対して、私は嫉妬心が生じて、彼女や彼女に連絡を取っている学習者にも不満を抱いた。全体協調を無視し、個人の事ばかりを主張していた。これを旧勢力に利用され、他の学習者との間で激しくぶつかり合っていた。

師父は『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』の中にこう言われた:“現在現れてきた学習者の間の摩擦ですが、皆さんはそれに気をつけるべきです。これらの些細なことで大法弟子が本来行なうべきことに影響してはいけません。皆さんに教えますが、どのような摩擦が現れても、どのような情況が現れても、きっと私たち自身に漏れているところがあるからです。これは間違いのないことです。漏れているところがなければ、誰もこの隙に乗じることができません。学習者の間の心性上のトラブルや、お互いの協力に協調を欠いているところは、事の大きさに関わらず、皆さんに教えますが、それはきっと魔が隙に乗じているのです。あなたは大法弟子なので、あなたが修煉してできたその部分は完全に神としての基準と一致しています。表面はまだ大法の中で修煉していますが、大法弟子として基本的に言えば、各方面に大法弟子としての状態を表わすべきです。時に心性上の摩擦が現れますが、それも認識上または心性上に執着があるからもたらされたことです。これらのことは小さいのですが、空間にあるでたらめな良くない生命に隙に乗じられやすいのです。これらのことに皆さんは注意すべきです! 今回の邪悪な試練を経て全てが分かるようになったはずです。”“ですから、何かをする時に協力しあうべきです。それぞれの大法弟子のことは皆さんのことです。誰も些細な事でお互いの間に大きな溝が生じるようにしないでください。これはいけません。大事にすべきです。しかも、大法のことをする時に協力しあい、より良く協力し合うべきです。” 

師父の講法を勉強してから、私は分った:他の学習者と衝突が生じる時、事情の大小や、表面上の正誤に関わらず、必ず自分に執着があった。これによって魔にこの隙を狙われたのである。他人の欠点を探すことや、“法の要求に従っていない”との理屈で彼女に不満を抱いたことは、正に自分に寛容の心が足りない表現であった。
『オーストラリア法会での説法』の中に次の会話があった:

“学習者:修煉者の利己的な一面を見て、耐え難いのです。”

“師:それなら、あなたにまた何かの執着心があります。誰もが修煉者の心を動かすことができないはずです。その人の利己心が現れたのを見ましたが、それが現れたのはあなたにその人に教えてもらい、その心に気づかせることによって取り除いてもらうためかもしれません。あなたはかえって彼の私心に動かされ、耐え難くなれば、あなたに心がないと言えますか? そうでしょう。” 

この経文から私はこう悟った:他の学習者と意見が違う時、表面で如何に自分に理があっても、如何に法のためだと思っていても、心の中に不平、不満があれば、必ず自分に問題がある。高い標準を他の学習者に要求するばかりでなく、法の基準に従って厳しく自分を律するべきである。一方、他の学習者と寛容の心で接することができれば、必ず良い協力関係が作れる。

師父は『オーストラリア法会での説法』の中にこう言われた:“皆さんは既にこのことに対して明確な認識を持っているのに、なぜ本当に修煉者のように自分の執着心を放棄することができないのでしょうか? 正々堂々と修煉者として振舞ってください。法を正す修煉者はまず殴られてもやり返さず、罵られても言い返さないようにしなければならないと私はいつも言っています。それなら、皆さんは修煉の中でトラブルにぶつかった時、何故その心を放棄することができないのでしょうか? 気に障るようなことを言われた時、何故機嫌が斜めになってしまうのでしょうか? 不機嫌になった時、心の中で修煉と向上の機会を排斥しているのではありませんか? 常人と同じような喜びを得たいと思っているのではありませんか? それでは、あなたは常人ではありませんか?! こういう時に「私は何故不機嫌になったのか? 人に何かを言われて不機嫌になった時、自分は何かを求めているのではないか。常人の中で誰もが私にやさしく、気持ちよく過ごしたいと求めているのではありませんか」と考えるべきです。それでは、あなたはどうやって向上するのでしょうか。常人のものを何も取り除かなければ、どのように向上するのでしょうか。ですから、向上することができません。これらのもの、人間が放棄できない執着を真に放棄すべきです。” 

師父の講法は私の心を震撼させた。すでに6年間修煉してきたのに、なぜ魔性が取り除かれなかったのか。なぜ心性を守らなかったのか。なぜ人の意見に耳を貸せなかったのか。師父の経文を読み直したら、自分はかなり危ないところに立っていることを自覚した。そして、私は自分が顕示心の強いことが分かった。いつも自分の修煉が人よりよく出来ており、自分の経験が人より豊富であり、自分の知っていることが人より多いと思っていた。それで、他の学習者の意見を聞く耳を持たなかった。海はなぜそんなに大きな容量があるのか?それは自分を一番低いところに置いているから、それで千百の河川を取り入れることが出来た。修煉の道で自分は人よりよく出来ている、人よりレベルが高いと思えば、必ず修煉が停滞して、危ないところに落ちてしまう。

この数年来私は真剣に忍が出来てない根本の原因を反省すると、“私は数十年以来、この荒っぽい性格だった”といういつもの台詞を見つけました。この様な魔性を自分の本性として考えていた。他の学習者からこう言われた:“その荒っぽい性格は自分自身のものではなく、あなたでもない。それは魔性であり、旧勢力である。それはあなたを操って、怒らせ、向上させないで、あなたを下へ引っ張っている。それをはっきり認識して排斥し、否定して認めないようにしてください。”

もう一人の学習者は私に『明慧週刊』第62期を送ってきた。中に“大法小弟子帥が見た別の空間”という文章があり、文章の最後にこう書かれていた:“あなたが私に怒った時、私は一つの魔があなたの背後に居ることを見た。その魔はあなたとそっくりの皮を被っていたが、私は見破れた。彼が口を開け閉めしている間、あなたは私に怒鳴っていた。あなたが怒る前、彼は拳ぐらいの大きさだったが、あなたが怒り出すと、彼は一気に大きくなってきた。”これを読んで、私はすべてが分かった。私が怒った時、私はすでに魔の道具になっており、まったく修煉者の和やかさや寛容そして慈悲はなかった。この佛恩が浩浩たる時期に、このまま精進しなかったら、自分に対しても申し訳ないと思った。

忍が出来てなかった私は、常人や学習者に散々怒ってきた。これでどれ程業を造ったのか、どんなに邪悪に喜ばれたのか、考えてみれば、恐ろしいことである。怒る度に、一人の大法修煉者は、悪魔に操られて、魔の道具になってしまった。本当に申し訳ないことでした。悔しい中で、本当の自我を見つけると、その瞬間に私を利用した魔は壊滅され、自分も一歩先に邁進できた。このことを通して、私は分かった:静かに法を学び、自我を把握し、矛盾の中で自分の問題を探すことが出来れば、始めて絶えず精進できる。

師父は『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』の中にこう言われた:“皆さんの道は、皆さんが既に目にしたと思いますが、実は非常に狭いのです。少しでもずれてしまったら、あなたは大法弟子としての基準に合わなくなります。一本の非常に正しい道しか私たちは歩むことができず、少しでもずれてはいけません。なぜならば、これは歴史の要求であり、未来の宇宙の衆生と生命の要求だからです。未来の宇宙は皆さんが法を正す中での漏れによって少しばかりのずれも現れてはいけないので、皆さん自身が法を証明する中でしっかり歩んだ全ての一歩一歩は皆非常に重要なのです。それは平凡そうに見えます。皆さんが法を証明する中で歩んだ道、威徳を樹立するこの期間中に如何なる汚点と遺憾をも残さないでください。それは永遠に抹消することのできないことです。・・・更に良く行なうようになるべきであり、今までのそのようなことが二度と現れてはいけません。” 

私は法を実証する道の中に、遺憾を残した。この教訓を銘記し、忍を修することに努力し、心性を守り、厳しく自分を律するように決心した。ここで、忍が出来てない学習者へ建言したい:私の教訓を汲み取り、魔性を取り除き、自我を把握し、先天の善良の本性を取り戻して、大法と師父を固く信じて、三つのことをしっかりやりこなして、最後の一歩をしっかり歩んで行こう。

“未来、大法弟子を待っているのは至高でこの上ない永遠の栄光と威徳です!” (『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』)