日本明慧


肉親同士の情から執着と法の勉強について語る

文/善果

【明慧ネット9月20日】一人の人間として、肉親同士の情は私の心の中で根強いもので、修煉を始めた後、ずっとよく対処できなかった。自分でもこの類の情がとても大きいと感じ、かえって慈悲で親と家族に対応することが出来なかった。このような肉親同士の情に対する執着は、主に心からこれらを切り離すことができず、常に親、兄弟姉妹、親戚を他の衆生と区別して対応することから顕れた。これは単なる家族に対する関心或いは無関心のような表面的な表れだけではなく、さらに主に家族がよくなることを希望し、彼らになんらかの要求があり、自分は彼らに要求する理由があると感じることにあった。その結果彼らにそれらができなくなると自分の情に及ぼされ、逆にこの情により自分が家族に与えられる良いところがかえって与えられない結果になった。例えば日常生活の中、或いは特別な真相を伝える場合、親族以外の人に対して比較的理解ができ、冷静であっても、自分の親族に対しては、自分でも道理の説明が不足すると、心がけと理解が足りないと思った。どうしてだろう?情がこれらを引き起こしていると分かっている。これらの問題は親、兄弟、妻と子供たちにかかわるだけではなく、友達とほかの個人的関係が深い人との間でも現れた。実際修めてないわけでもない、ずっと抑制し、上達もした。しかし根が残っているようで、まるで何かによってその執着に心の底で鍵を掛けられているようだった。
師父は《転法輪》の中で、錬功しても功が伸びないのには二つの原因があるとおっしゃった:“高次元の法が分からないために修煉ができないことと、内へ向かって修煉せず、心性を修煉しないので、功が伸びないのです。”と。肉親同士の情の問題で、私はずっと内へ向かって探した、いつも自分の問題が見えた、しかし徹底的に修めることはできなかった。その問題は主に法理に対する認識が足りなかったことにある。そして続けて修煉し、もっと法を勉強するしかなかった。

99年迫害が始まった後、時間がきつくなり、大法の仕事の圧力も非常に大きくなった。厳しい環境の中で、師父と大法を守るのはおのずと第一になった;自分で大陸と直接のかかわりがないこと、特に個人にかかわることはすべて第二に、或いは重要ではないことにした。そして“個人”の概念の区別には観念の要素も含まれた。例えば、親と家族は“個人”の範疇にいれ、そして家族の多くの需要は自分の需要となり、自分が大法を守るのに時間が足りないから(其のときはまだ法を正す概念がなかった)、生活状態はほとんど無視する程度にまで至った。そして家族の多くの要求は自分個人のこととして無視された。間もなく、現実は私にこうするのは間違っていると証明してくれた。少なくとも家族が理解できる角度から真相を伝えるべきだった。常人の角度から見ると、一つの家庭の中で重大な問題については基本的な共通の認識が必要なのであった;修煉の角度から言うと、家族が真相を知るとそれは彼ら自身の現在と未来にとってとても重要なのであり、修煉する人が家族に対して出来る限り最大の善を尽くすのは、彼らが大法に対するこの問題においてよい選択ができるよう助けることであった。

自分の心理状態を調整すると回りの状況は大きく好転した。家族はますます私を支持し、うまく協力できるようになった(実際は自分の修煉状態の反映で、自分の心が大法の要求に順応して心性を修め、周りのすべての衆生を善で待遇すれば、その周りの環境も対応してますます思い通りになる)。しかし、私の心は知っている、自分にたまたままだ情の影が残っていて、時には重く、時には軽く顕れ、他の方面での心性の試練がくると、情がすぐ出てくることを。父が亡くなった時、この情の問題は更に深刻であると感じた。まるで深いところに隠された肉親同士の情の根は根本的に無くなっておらず、出てきて作用するととても辛かった。時には強制的に抑えるしかなかった。“どうしてだろう?どこに問題があるのだろう?”という問題が仕事の合間に繰り返し浮かんできた。答えはいつも“続けて修煉しよう、続けて法を勉強しよう。”であった。

とても長い間、とても忙しく、《転法輪》と新経文をわりに多く勉強した。この日、《転法輪(巻2)》を取り上げた。そもそも《仏性》を復習しようと思ったが(この経文は弾圧が始まる前何回も読み、手放し出来ないほど、奥深くて無窮だと感じる経文だった。99年以後はあまり読んでいなかった)、その結果読み始めると、一気に巻2を一度で全部読み終えた。“ある種の観念が形成されると、人の一生を支配し、その人の考え乃至、その人の喜怒哀楽を左右するのです。これは後天的に形成されたのです。時間が経つにつれ、この観念は人の思想に溶け込み、本当の自分の脳に溶け込み、人間の性格を形成してしまいます……”(《仏性》)。無意識の中で、自分が長い間肉親同士の情に対して執着して切り離せなくなった一つの観念-儒家の思想と同じ思想である(これは一つの障碍であった。もう一つのすでに切り捨てた障碍は家庭関係に対して、常人のような憧れと追及があった。それは外在的な形式と状態、家族の間でいかに楽しく、互いに理解し、各自自分の役割を果たすかなどを指すのではなく、かつて心の中の幸せな円満な家庭に対する切り捨てられない執着であった。切り捨てられないときは思想が情の問題でからみつき、或いは言動に顕れた。)

今回の法の勉強の中で《道を修めずとも既に道にいる》という経文を読むとき、師父は私に、孔子が伝えた儒家思想は人を為すための道理で、大法修煉は完全に大法修煉の理に従って修めなければならないことを明白にしてくれた。儒家は肉親同士の情を重んじ、孝道を重んじる、家族がそれぞれ自分の道を持っていると強調していた;しかし仏家修煉はすでにこの範疇を超え、“佛家は世間のものを軽く見ており、人がこの世に生きている以上、世々生々に数え切れないほどの親がいると思っています。これらの執着心を全て取り除き、清らかに修煉することによって初めて修煉を成就させることができます。それらは全て執着心であり、儒家思想を取り入れた後、家族の情に対する執着という問題が出てきました。”この道理は前に読んでなかったわけでもない。只以前は学んだ後注意して自分の思想言動に照らしてなかったので、この法理に同化できなかった。またこの問題については執着するのに慣れていた状態だったからであって、矛盾が生じても師父のこの法がまだ頭に浮かばなかった。これも法の勉強がよく出来ておらず、またそれから生じた問題だろう。

もう一つの原因はかつてずっと儒家思想はすべての人を如何に常人としてよい人になるかを教え、大法修煉も我々に常人の中の善人から始めるから、親に仕え、子女をよく教育するのは当たり前で、必ずよくするべきだと思い、そしてこの問題で人間になることと修煉の間の本質的な区別を無視した。それは大法修煉(特に正法修煉)は人心をまっすぐ指すだけでなく(家族に善で待遇するよう要求するがこの道に執着してはいけない)、またもっと高い要求があり(情を切り離して慈悲を修める、誰にも慈悲で待遇する、親でも家族でも道行く人にも、特に法を正す期間に一人一人の未来と関わる最も根本的な問題で人に善で対し、相手に真相が分かるよう助けてその生命が法を正す時期が終わった後、美しい生存状態にあるようにする)、只目前の衣食住や乗り物に対して“家族に良くしてあげる”だけに留まらないようにする。矛盾の中で、肉親同士の情が心を刺激するこの間この次元を悟り、心の中で切り捨てなかったその曇りの根源が瞬間的に消えてなくなり、天地はさらに広くなり、心身はさらに清くなってきた。私はこれから多くのことに対して自分がもっと大法弟子らしくなり、常人も私たちがもっと善になって、もっと純粋になって、もっと信頼できると感じるだろう。

当然、長期に作用した観念がもたらした影響を真に物質から徹底的に取り除くには、法理を悟ってからまた一つのはっきりとしたそれを取り除く過程が必要である。それは人の観念が思想業力を作り出し、その思想業力が多くなるとかえって人に作用するからである。それはおのずと、また自ら消滅されるものではない。そこで正念を発するとき念をいれて取り除き、毎度浮かんでくれば、決意を固く、冷静に取り除き、同時にその機会に心で法理を復習すると、とても早く修められる。もし法理上悟った後、また繰り返されたとき、法理がはっきりせず、思想業力を自分だと思い、また“私はどうしてまだこうなの”と言い、自己評価或いは自分の過ちを責めとがめると、それは思想業力にだまされたことで、法を正す貴重な修煉時間を無駄にしてしまう。

以上は修煉の中で思いつくままに書いたものである。すべてが自分の現在の状態での認識である。修煉過程中、多くのことは一つの事から類推して多くの事を知り、一つに通じればすべてに通じる、なので書いた。只似通った状況がある同修に参考価値があることを祈る。