日本明慧


法理の上から再び“非政治”を認識する

文/カナダの大法弟子

【明慧ネット2003年10月5日】真相を説明する時、一つよくぶつかる問題がある:一部の人に我々が政治活動をしていると思われている。このような人は多いに性格が頑固で、真相を聞くことに抵抗が強く、なかなか人の言葉が耳に入らない人である。この問題について学習者の間で何回も議論したことがある。様々な対応方法が提供されたが、問題はなかなか解決できず、再びこのような人と遭遇する時、やはりうまく対応できない。

私は冷静に真相を説明する時の心境を反省してみたら、問題の原因が少し分かってきた。毎回人にこの50年間××党が犯した様々な罪業、特にこの4年間大法に対する迫害の罪悪を語る時、自分は知らない内に常人の心が動き出していた。そして「この党は本当に悪い、このまま存在させるべきではない」と思ってしまった。そうすると、話の口調は自然に攻撃性を帯びてくるし、自己制御も出来なくなる。結局、聞いている人に“気功を練習すれば良いのに、なぜ政治に参与するのか”と言われてしまう。同じ問題に繰り返しぶつかり、突破できない時、我々は法理を参照して、放下できてない執着心を探してみるべきである。

この問題に関して、師父は講法の中で何回も触れたことがある:“しかし、私はあなたの××党に勝つつもりはありません。”(『2003年アメリカ中部法会での講法』)今まで、この言葉について十分に理解できてなかった。最近、真相を説明する時に法理の理解不足によって人に真相をはっきり伝えられないことが度々起こっている。法を参照して反省した結果、気がついた:我々が曝露させたい、根絶させたいものは宇宙の旧勢力であり、××党という人間での存在形式ではない。 “万古の事はすべて法のためにやってきた。” ××党はあくまで旧勢力が最低次元で按配したものであり、旧勢力の手先が人間での表現である。本当の邪悪なものは違う空間に存在しているのに、私たちはこの表面の現象を邪悪の本質と勘違いした。この誤った観念を根本的に取り除くために、法理に従って慈悲、無私、執着無存……という覚者の基準を目指して修煉するしか方法はない。

この空間において、××党は抽象的な存在ではなく、6600万人の構成員を有している。だが、その中の多くの人は普通の世人と同じように騙されている被害者である。これらの人はXX党員であるが、善念がなく、済度できない人でもない。彼たちもすべて救い済度される対象である。我々が心の中で××党を根絶しようと思った時、すでに6600万人の人々を救われない側に押し出している。

この認識がはっきりした後、私の頭の中から××党の概念が消えて、正義と邪悪の違いしか残ってない。真相を伝える時、××党のことを触れずに、ただ正邪、善悪を弁識できるように人に真実を説明するようになった。常人の感情を抱いて××党のことを思わなくなった時、徐々に相手から“政治活動”だと言われなくなった。

旧宇宙の生命が法に同化するかどうか、それは彼たち自身の選択である。覚者としてただ慈悲で固く法を護るだけである。法の威厳により、すべての法を危害し、衆生を毒害する要素は必ず淘汰される。この迫害の中で、この邪悪な江××政治集団が××党の旗の下で行ったことはすべて邪悪なことであり、淘汰されるべきである。衆生を救い済度するために、全面的に彼らの邪悪を暴露させなければならない。しかし、もし我々が人間の憤慨、怨念を抱えて対応したら、往々に良い効果が得られない。

反省を通してもう一度“非政治”の意味を考えれば、私は正法を正しく理解した上で、心が人間の政治観念によって動揺されないことだと理解するようになった。つまり、我々はこの空間の××党の観念に影響されず、ただ邪悪は何か?どれ程邪悪なのか?なぜ邪悪を暴露するべきか?どうすれば邪悪を全面的に暴露でき、抑制できるかをはっきり認識すべきである。法を正すことにどんな人間形式を採用しても、正法の本質から正法の意味を正しく認識できれば、各次元の宇宙生命に非を言われることはないはずである。そして世間の人々も我々の真相説明が“政治活動”だと言わなくなるだろう。ここで重要なのは我々が何をしたかではなく、何かをする時に執着心を持ってしたかどうかなのである。

個人の体験であり、慈悲で指摘してもらいたい。