日本明慧


自分をしっかり修め、全面的に真象を伝える

張頴

大法が国内で不法に弾圧されて以来、日本の弟子は三年間連続して国会会期中に700名近くの国会議員を訪問し、真象を伝えてきました。一年目の時、議員一人にも会えませんでした。法輪功の問題は中国の内政だと言って、秘書たちに門前払いされるのが殆どでした。常人の態度が良くないと、私もおどおどしてしまい、事務所のドアをノックする前に勇気を出さなければならないほどでした。大法弟子の正々堂々とした姿は私の身に少しも現れませんでした。こんなたくさんの議員がいるのに、何で誰も支持してくれないのかといつも国会の建物を見てそう思っていました。ある韓国慰安婦を支援する団体はそのときいつも議員から発行された通行証をもって議員会館を自由に出入りしているのを見て、彼らがどのように国会で活動していたのかを聞いてみました。「慰安婦の問題の責任は百パーセント日本政府にあるのに、六年もかけてここまでできた」と彼らが言って、長期的な作戦計画を練ったほうがいいとアドバイスされました。次の年、つまり金子容子さんが中国国内で逮捕された去年、私たちはもう一回国会にきて、議員の中で救出のための署名を集めました。そのとき、一部の人が各種のルートを通じて、この迫害を知っており、一人二人の議員は私たちを支持しようとしていました。一部の学習者が議員会館の中で真相を伝え、外に他の学習者が散らしを配っていました。ある議員はチラシをもらって自ら助けたいと言ってきました。また秘書から私たちの資料を読んで、すぐ署名してくれた先生もいました。予想外のことが毎日のように起きています。国会活動は順調に進んでいました。私たちを支持する議員たちは連携を取って、国会がもうすぐ閉会するという情況で、超党派議員連盟を設立し、外務省に請願書を提出し、外務副大臣と面会し署名を渡しました。政府に真相を伝えることにやっと、突破口を作ることができました。

しかし、歓喜心と常人に対する頼る心で、議員連盟が成立されてから大きな動きはなく、政府に対する働きは一時停滞に陥りました。これから何をすれば良いのか皆方向性を失ったかのようでした。ちょうどそのとき、師父は説法の中で常人に期待を託してはいけないという法を説いてくださり、繰り返し新経文を勉強し交流してから、私たちの常人に対する期待の心と大法のことを常人の仕事のように扱ってしまった心に気づきました。できるだけ早く容子さんを救出するために、今年もう一回国会にきて議員訪問をして署名を集めました。

国会に真相を伝える時大量の資料が必要なので、一部の学習者は自ら進んで資料の印刷の仕事を担当しました。費用を節約するために、八枚一部の資料700部を学習者はプリンターで一枚一枚印刷しました。たくさんの学習者も参加しました。一日一二時間しか参加できない学習者、夜勤を終えたばかりの学習者は皆国会に集りました。私たちは議員の事務所一軒一軒回って、彼らに大法の素晴らしさと大法弟子の強権に屈しない精神を伝えました。いつも二人一組で、一人が説明を担当し、もう一人が正念を発するというように行動しました。また、訪問と言う短い時間の中にできるだけ相手にインパクトを与えようとし、迫害される前大法が中国で普及していた時の情況、学習者が受けた迫害と各国が大法に与えた褒賞などの写真を一冊のファイルにまとめました。説明の足りないところがあればお互い補い、訪問が終えたたびに、よくできたところよくできていないところを二人で交流していました。同時に、国会の外で、ある年配の学習者夫婦は体の不具合を克服し、毎日横断幕を掲げていました。この横断幕が非常に目立つので、その周辺を通りかかった人ならすぐ目にすることができ、非常に良い効果を得ました。もう一部の学習者はチラシ配布もしていました。国会で活動していた期間中、私たちのチラシは議員会館のいたるところで眼にすることができます。金子容子さんのことでお邪魔していると言うと、毎日角でチラシを配っていますね、もう見ましたよと殆どの人が既にこのことを知っており、そこから法輪功の話を始め、すんなりと話が進んでいきます。実は中で一軒一軒回る時にめったに議員に会うことができません。むしろ、外でチラシを配っている学習者のほうはいつもその辺行ったりきたりしている議員に会う確率が高いのです。一部の議員の署名は外でチラシ配りの学習者が取ったものです。国会活動をしていた時、普段履かないハイヒールを履いて、重たい資料をもってぎゅうぎゅうになっている通勤ラッシュの電車に乗って息切れそうになっていましたが、いつも頑張っている学習者の姿を思い出すと、皆さんに支えられていると感じ、学習者の温かみに励まされています。

政府に対して真象を伝えることは国会だけではなく、全国各県の議会の議員にも電話をかけ、資料を送り、署名を集めました。全国からあわせて200名以上の地方議員が署名してくださいました。また、車で各県を回り、金子容子さんの釈放を求める請願書を県議会に提出し、記者会見を行ないました。特に容子さんの実家である新潟県と佐渡島に何回も渡り、各町各村に出向いて真象を伝えました。私たちが出した請願は東京都を含む全国100以上の市町村議会に採択されました。署名するだけで役立つのですかと疑問を持つ議員もいますが、私はもちろん訳たちますよといつも言っています。一つ一つの署名は衆生の目覚めと邪悪の根絶を表わしていることを私に分かっているからです。

政府に真相を伝える中で協調とは何かについて会得することができました。ある日、私ははじめてある学習者とペアを組みました。彼が説明しましたが、多くのことをはっきり説明できず、しかも長々と続いていました。私は不満を思い始めました。応対してくれた議員の秘書も眠そうな顔をしていました。私は不満を感じながら正念を発していましたが、もちろん効果は良くありませんでした。その学習者を責める言葉はいまでも出そうになっていましたが、「内に向けて探さなければならない」と私は自分を抑え、自分を探し始めました。この時、私に普段他の学習者がちゃんとできるかどうかという疑いの心があると気づきました。自分が今までたくさんの大法の仕事をやってきたので、自分が良いと思っている行動方式ができてしまい、無意識のうちに自分の基準で学習者を量っています。この心に気づいたら、私は彼の話に耳を傾け始めました。たりないところがあれば、タイミングを量って補足し、彼も自分の足りないところに気づき、次回はそれを加えるようにしていました。何回かこのようにして、最後本当によくなりました。師父は最近の説法の中でいつも協調の重要性を説いてあります。どのように協調するのでしょうか?時に相手の意見が良いと思っていませんが、自分の意見を堅持してはいけないと師父がおっしゃったから、仕方なく相手の意見に従っています。今回の出来事から、協調は常人の妥協ではなく、それは内に向けて探して自分の執着を放棄してから自然に現れることです。師父が用いる言葉に対して常人の理解で解釈しておらず、その深い内涵は本当に内に向けて探し向上してからはじめて会得することができます。

師父は「論語」の冒頭で、「根本から常人の観念を改めなければならない」とおっしゃいました。どのように根本から改めるのでしょうか。長い間、私はこれについてはっきりとした認識はありま。今年東京都議会に対して洪法したとき、このことについて少し悟ったのです。今回、私は他の学習者と一緒にこの仕事を担当しました。以前私にやった経験がありますが、どのようにしたら良いのか知らない学習者もいます。私はやるべき仕事を文書にし、進み方も詳しく書きました。資料のない学習者がいれば、私は資料を学習者の手元に届けたりします。その数日、私は常人から見れば本当にたいしたことのないことで忙しかったのです。しかし、まさにこの数日の間、プロジェクトの担当者が上に立って人を指示する人ではなく、転法輪の中のあのお寺で雑業係の和尚のように皆さんの世話役であるべきだと分かりました。私たちの仕事は順調に進んでおり、心性上のトラブルもなく、お互いに補いあい、連絡や協調に何の問題もありませんでした。そして、私たちの請願は予想外に採択されました。この時から修煉者の理は常人の理とは逆になっていることに気づき始めました。実は師父は「転法輪」の中で何回もこのことについて説いてあります。更に、「大法が圓容である」と言う経文の中で「三界が宇宙の全てと逆になっているため、法理も常人が生存するのに適するように逆になった理をこの次元の生命に提供しました。例えば、武力で天下を征服する、王者が国を治める、殺生して食料をとる、強者が英雄になるなどなどです。良い人、悪い人、戦争などに対する概念は常人の理と認識を作り上げたのです。これらは宇宙高次元の正しい法理にとって皆、間違っているのです。ですから、修煉者は常人の全ての心、全ての理を放棄してはじめて、高い次元まで修煉し、宇宙と相反する三界から抜け出すことできます。」この理を分かった後、多くのことに対してどのように対処すべきかかつ然と分かりました。それから、何かの問題にあったら、常人ならどのように対処するのか、私は常人のように対処してはならないといつも考えています。

この間、ある修煉者がチラシを配った時、ある中国の留学生に殴られましたが、かえって加害者と相手に訴えられ、二人とも留置所に入ってしまいました。彼を救出するため、弁護士を探す学習者もおり、証人を探す学習者もいましたが、私が何をすべきかなのでしょうか。今私たちが行なった全てのことの目的は真象を伝え衆生を済度するためです。修煉者を殴ったこの留学生は中国政府の影響を受け、大法のチラシを破り人を殴ったのです。実は彼こそもっともかわいそうな人で、最も私たちが真象を伝えるべき対象なのです。常人なら、殴られたら殴り返すが、大法弟子として常人と反対に、殴られたら、相手を恨まないだけではなく、更に善をもって接しなければなりません。善だけが力のあるもので、修煉者は善を修めなければならず、善を持ってこのことを解決しなければなりません。この時師父がおっしゃった「善解」の意味が分かるようになりました。つまり善をもって物事を解決するという意味です。私の考えにある修煉者は賛同してくれました。最近だいぶ寒くなったので、彼は服が足りないのではないかと思い、日常用品を買って彼に会いに行きました。留置場に拘束されたら、誰も良い気持ちしないし、中にいてさぶしいだろうと思って、大法の真象資料と新聞ももって行きました私たちは問題を解決するために彼に会いに行くのではなく、完全に彼の立場に立って、彼が私たちのいたわりを必要とする生命だと思いながら、警察署に向かいました。あいにく、彼はその日いなかったのです。一緒に行った弟子はその後何回か尋ねて彼と面会し、帰ってすぐ私に電話をくれました。「彼はすっかり変わりました。法輪功学習者の善の心に感化され、殴られた学習者に謝りたいと言ってます」。次の日、多くの学習者の努力で、この事件は解決されました。師父は経文の中で、「もしある人が完全に相手のために思い、少しも自分の目的と認識がなければ、このような人が言ったことに対して、相手は涙を流すに違いありません」とおっしゃったように、私は純粋な善の力を体験しました。

もちろん、私は修煉の道で様々な挫折も経験しました。一時期大法の仕事に対して名利心が表れ、威張っているといわれましたが、私が優しいのにそんなことはないときっぱり否定しました。ある日、≪転法輪≫の第二講の中で「名利心を取り除かなければ慈悲心が現れない」という一文があるとある学習者は私に言いました。口で私にはそんな心は無いと言いながらも、もう何年も修煉したのに、この一文に全然気づいていないなあ、帰ったら調べなければならないと心の中で思っていました。家に帰って第二講に本当にこのように書いてあります。私ははじめてなぜ自分に慈悲の心がいつまで経っても出ないのかと言うことの原因に気づかされました。私は第三講の中で返修して後で落ちてしまった気功師のように、最初は良かったのですが、だんだん仕事を多くやるにつれ、褒め言葉ばかり耳に入ってしまいました。指摘されると、耳を貸そうとせず、自我がますます強くなり、自分が他人より優れているとまで思ってしまいました。修煉の状態も時々良くなったり、悪くなったりします。大法の仕事に対してもやりたくない時期もあり、師父が言うように、「自分を大法の中におき、大法の中の一粒子のように」ならなかったのです。個人の修煉がしっかりしていなかったため、修煉が非常に苦しい時期もありました。あるとき、他の学習者とのトラブルでどうしても乗り越えられず、長く魔難の中に陥ってしまいました。夢の中で私は危険にあっていますがもうこれ以上歩けなくなりました。この時、師父がやってきて、私を引張って前へ走りました。夢の中ですが、師父の手が暖かいと感じました。その感触は今でも思い出し、感じることができます。朝目が覚めて、師父の慈悲と向かい合う面目はなく、自分の修煉を反省し始めました。私は多くの求める心と闘争心をもって神聖な法を正す仕事を行っていると気づき、今日になってまだそういう心がある自分に大変驚きました。自分の法の勉強の状態も改めてみてみたら、師父の要求とはまだ程遠いのです。師父は全ての説法の中で再三にわたって、法を勉強しなさい、勉強しなさい、いくら忙しくても心を静めて法を勉強すべきだと諭しています。しかし、私は時に適当に法を勉強し、それを負担だと思う時さえあります。私たちは大法によって造られた生命であり、大法から離れると、まさに水から離れた魚と同じです。しかし、魚は一刻も水から離れてはいけないのです。「転法輪の一字一字の背後に重ねに重なった佛道神がいます」とある学習者はそういいました。この言葉は私は何回も聞きましたが、その日その言葉は本当に私の心に届きました。師父は「もし皆さんの一人一人が皆心から法を認識することができれば、それこそ威力無辺のほうの現れであり、つまり強大な佛法のこの世での再現です」とおっしゃいました。今日まで修煉して、私は本当に心から法を認識したのでしょうか? 私は本当に師父を信じているのでしょうか。これは私たちを佛にすることのできる本なのに、私はどういう気持ちでこの本に対処しているのでしょうか? その後、私は法の勉強に力を入れました。毎日の夜七時から十時までは私の法の勉強の時間であり、間のちょうどの時間で正念を発します。最初心が静まらず、とても辛かったのです。このように読んで役に立つのでしょうか? こういう念がいつも浮かんできます。それでも読み続けました。更に正念も発しているので、徐々に法は頭に入るようになりました。

法を正す最後の時期において、私はまだたくさんのやるべきことをやっておらず、家族もまだ私を理解していません。学位論文も進んでいません。常人の中でたりないところもまだあります。今後着実に自分を修めると同時に、足を地に付かせ、残った法を正す道のりをしっかり歩みたいと思います。