日本明慧


徘徊、傍観と無神経について

2003年11月4日 文/大陸大法弟子

【明慧ネット2003年11月4日】修煉中、我々がある方面の人間の執着心および長い歳月に養ってきた観念をなかなか捨てようとせず、または少ししか捨てていないため、それらはある時期になったら作用しだし、甚だしい時には修煉者を台無しにしてしまうことがあり、これは非常に厳粛な問題である。

ある修煉者は、ある次元において天目が通じて修煉中の俳諧、傍観と無神経の背後にある原因とその状況を見た。この現象は実は、その背後に旧勢力、黒幕及び乱鬼らの邪魔でそうなっていることだった。これは、学習者にそれらのことを認識するのに一つの参考になれればと思って書いたものである。

実は、我々修煉者の主体のいるこの謎の空間から言えば、問題の原因はやはり我々自身にある。我々の放下すべき執着心と観念を捨てておらず、大法に同化すべき部分が完成していないため、以上のような現象が現れたのである。我々の身体に存在しているそれらのよくない観念や人間の心はいずれも旧宇宙からのものである。しかし、新宇宙に入ろうとするある修煉者は何故、それらのよくない要素をなかなか捨てようとしないのであろうか。

師父は法の中において全ての法理をことごとく説き出されているが、我々は自分の限られた視野、限られた容量などによって依然として自分自身を制限している。そのため、自分は理知的に大法に基づいて自分を照らしつつその中において道を悟ることができないのである。

例を挙げて言うと、師父はわれわれにより多く大法を学ぶよう再三要求されている。すべての真諦はみな『転法輪』に含まれている。しかし、われわれが後天的に形成したものを捨てない、あるいはそれをもっと深く覆っているため、われわれには宇宙と生命の真相を見ることができない。このような状況下において、我々の思惟と判断は漏れるところがあり、圓容ではない。なぜなら、こういった状態下における判断には後天的に形成した古い要素も混じっているからである。しかし、これらの古い思想、人心は自己本位の体現であり、触られることと傷つけられることをなによりも恐れているので、そういった思惟のロジックはまた我々の本性の中に滲み込みつつ物事に対する判断を行わせている。そのため、我々は事をまだしていない前に先ず自己保護を考え、すなわち先ず「我」という基点において判断し決定をしているのである。このような思惟パターンは時間が経つにつれ固定的な観念を形成し、また我々の生命の中に溶け込ませてしまう。それに伴って、われわれ自身もこういった観念を認め、またこういった観念を持って問題を見る習慣になる。このように、われわれはまた、様々な「自我」の観念を生み出し、それらを積み重ねていき、一歩一歩に自我の私の形成と堅固を強めている。久しくなったら、この類のものは頑固化し、生命自身をすっかり主宰し、自分の本性を徹底的に失わせてしまう。

我々がもしこれらのものを見分けることができないうえに、かえってそれらを自分だと考えそれに従っていけば、我々はとうとう徹底的に打ち潰されてしまう。我々は上達することができないばかりでなく、師父と大法を懐疑し、徘徊、消極、無神経になり、また修煉の終る時間に拘りつつ自分の支払いと受取りを重視し、あるいは「我」しか目に入らずに法を正す神聖さが見えなくなる。これらはいずれも乱れた旧宇宙の中で形成した観念及び人心の現れとその局限なのである。

皆さんは誰でも師父が我々により多く本を学ぶよう要求されていることを知っている。全てはみな法の中にある。しかし、ある学習者は全てのことはやはり自分がよくはっきり見ていると思っている。彼(彼女)らは完全に信じないという基点において本を何回か読んだだけで、師父が説かれたようなことになれないのを見て、師父の説法は玄妙で信じ難いと思い、甚だしい者はその迫害を避けるために本を読んでいるのである。これらの行為は実は大法に同化することに反撥しているのである。

ある学習者は自分の思想を正すことをあまり気をしない。しかも、自分のよくない思想に対してもそれほど気にしない。念を動かすことは何にもならず、それがよくないものだ分かればよいと思いこんでいる。これも主意識が古い観念の人心を放任させていることである。これは実に深刻なことである。ある人は何故長期間なかなか上達できないのか、何故法に対して疑いの念を持っているのか、何故『転法輪』から法理の内奥が見えないため師父とこの天法を信じなくなるのか、実はよく修煉している上士にとって、彼の分かっている一面にはこの果て無き大法の価値との分量を十分知っているはずである。個人の観念に制限されているため大法の内奥が見えないことにより大法を否定してはならない。博大で深遠なる大法はなぜ我々小さな人間に符合することができるのであろうか。

師父は『転法輪』の中で、「高次元の法が分からないために修煉できないことと、内に向かって修煉せず、心性を修煉しないので、功が伸びないのです。」と、昔よりはっきりと指摘されている。我々は心を静にしよく吟味してみればわかるように、実は我々の修煉はこの説法の内容からちっとも逃れていない。もし我々は法の本当な内奥を見ることができれば(人間の観念によって法理を推察するのではなく)、覚悟した本性が我々人間の生命と一体化することができれば、たとえ当面の間に悟った法理のように完全に成すことができなくても、我々には消極と無神経という現象が現れてこられないはずである。

ある学習者は曰く、「法理は私にはみな分かっている」と。ある学習者は口では分かっていると言っているが、実は彼の分かっていることと本当の法理の体現との間には距離がある。ある学習者の書いた修煉の体験談を読んだら非常に啓発を受け、一つ一つの字の使用も非常に適切で、人間のより多くの執着と観念を切り除くことができる。同じ学習者にとって、このような体験談の読後、たしかに益を多く受ける。このような体験談は書いたのではなく、華麗な詞によって築き上げたものではなく、その学習者が着実に修煉していることによっての悟りなのである(実は学習者が正悟の状態下の心と感受は言葉を用いてはとても表現し得ない)。一方、我々はある文章を読んだらそれほど共鳴を感じない。それはおそらく作者が書くために書いたため、その中にはより深い内奥がないので、読者の心を打つことができないのであろう。

我々は時々、『転法輪』の説かれているものと挙げられている例は自分にはみな分かっていると言っている。しかし、実際行動するとなるとまたなぜ自分の常人の中で養った観念と習慣を基準にしてやるのであろうか。われわれは自分の観念の下で、師父が説法の中で挙げられているそれらの例は非常に簡単だ、と考えてはならない。実は同じ一句の説法でも、ある学習者には果て無き深い内奥を示すことができる。ある学習者が何も感じられないというのは、自分の思想と心性が淨(静)になっていないため、すなわちその純度が標準に合わないからである。

『論語』は『転法輪』全体を包含している。単なる「常人の観念を根底から変える」という十三個の文字を取り出して言っても、われわれ今日存在している普遍的な問題と個別的な現象のすべてもこの十三の文字によって包含されている。問題は、我々はどれほど体得でき、どれほど自我を放棄できるかとのことである。我々は、何時も千百年来乃至より長い歴史の間に形成した観念によって今の物事を見、そして己の愚かな所見の枠の中に這いまわっている。

ある学習者は、時間への執着がはなはだ強いし、邪悪の迫害現象を多く見てきたため、だんだんと恐怖心が起こり、ついには無神経となってしまう。実はこの期待と恐怖心は、修煉することによって昇華することを阻害する非常に重要な要素であり、それらは修煉者に非常に厳重な邪魔と阻害をもたらしているのである。これらのものは単なる精神上の素因ではなく、実在している物質であり、ある空間範囲においてそれらは形象と能力をもっている生命である。実はそれらは、我々が大法に同化している途中の「足かせ」、「路を阻んでいる虎」、あるいは邪魔というものである。それらの存在によって、われわれの正見と次元の向上を厳重に阻害され、われわれの判断を厳重に邪魔され、われわれの意志も厳重に弱めさせている。もし、心性の修煉上で止むことなくそれらを突破し、正念を持ってそれらをつぎつぎと削除することができれば、われわれは更に精進し、自ずと大法に同化し衆生を救い済度することができると思う。