日本明慧


“内に向かって探す”についての感想

2003年10月30日 文/大陸大法弟子 

【明慧ネット2003年10月30日】一人の正法弟子として、いつも修煉においては常に内に向かって探し、自分の心性に存在する問題を見つけ、すぐにそれを取り除くことは非常に重要なことである。本当に心性が向上してきて、各次元の我々に対する要求に達すれば、我々は始めて歩めば歩むほど正しくなり、衆生を済度する上での損失を減らせることが出来る。 

1999年より前の修煉で、私は早く向上してきたと自分で思っていたが、どんな矛盾にぶつかっても笑って平気で済ませていたが、別に気にしていなかった。ところが、今になって、私は自分の向上が遅くなってきているような気がしてきた。私は我慢も出来、怒ることもなかったが、私の問題は根本的な解決が得られなかった。私はその矛盾を、業を消す或いは自分の容量を多くすることとして、本当に内に向かって探すことをしなかったので、多くの矛盾は去ってからまたやって来た。私は疑問に感じて:自分の修煉はどうしてこんなに難しいのか?私はもう常人と争わないのに、どうしてまだまだ終わらないのか? 

今回の邪悪の迫害を通して、私はますます目が覚めてきて、ますます理性的になってきた。法を正して今になり、世間の一切はみな大法弟子の心に向かっていた。われわれは邪悪の迫害を絶対に認めないが、邪悪は我々の心の隙を狙っていた。 

私にとってあることが内に向かって探すきっかけになった。ある日、大学の同窓会があり、義父は同級生たちと知り合っているので、一人で家に居ると寂しいだろうと思い、私は父を誘って一緒に同窓会に参加した。思いもかけず、彼は私の同級生に会うと「私のこの婿は駄目になってしまった。これからの前途には何もないだろう。大金持ちにもなれないだろう」などと言った。みんなはただ笑っていたが、彼らは真相を知っているし、私に対して敬意も払っていた。

確かに、私はもともと高い社会的地位を持っていた。迫害されたため今は何も無くなってしまった。私は父がその話をするのを聞いて、ただ軽く笑って、それは常人の認識だと思った。しかし、すぐ考えを変えて、どうして彼はこの話を持ち出したのか?私には何かの執着心があるのだろうか。私は本当に心を放下したと思っていたが、自分は確かに少し不合理であり残念だと思っていた。以前の社会的地位が無くなって、そんなに力が強くなくなった。それらの旧勢力及び用心棒はこれを言い訳として、私の父をコントロールして、私を攻撃し、延いては法に対して不敬なことを言った。 

そこで、私はすぐに正念を強くもって、その良くない執着心を取り除き、同時に発生念をしてそれをコントロールする邪悪素因を排除した。その後父は再びその話をすることは無く、また思い出すことも無かったようだ。このことは私に大きな影響を与えた。師父の「実は常人社会で起きた全ては今日においても、皆大法弟子の心によって促成されたのです。”(《2002年米国フィラデルフィア法会での説法》)。我々の正念は本当に重要である。 
その後の修煉において、如何なる矛盾があっても、ただ笑っているのではなく、真剣に考えて、どうしてこのことは私の身の上に発生したのか、現在では簡単な業を返すことはないので、必ず自分自身の心に隙があるのではないかと思った。このようにして探すと、やはり自分の中の問題が多く見つかった。以前、自分は良く修煉出来ていると思っていたが、現在では法により計ってまだ遥かに距離があると分かった。仕事が順調でないのは自分が常人の観念に執着しているのではないかという気がした。法を勉強する時、大きい妨害があると、自分が法を勉強する正念が強くなかったという気がした等……。私は毎日本当に内に向かって探し、それに法を勉強し、強い正念をもって良くない心を取り除いた時、自分が本当に飛躍的に高まったという気がした。或る時、私は丸一日で十数、或いは数十幾つかの自身における問題を解決した。自分の正念はますます強くなった。 

修煉が進むに従って、内に向けて探すことは一つの機序になったのを感じた。つまり、自分の法を離れた部分を次々に見つけることが出来、そして法の要求に従って規正する。これは新宇宙の生命と旧宇宙の生命との基本的に違う方面だと思っている。旧宇宙の生命は法を離れた上にまた頑固に自分における問題を見ないので、いたずらに法を正すことを邪魔して、壊滅に向かっている。新宇宙の生命として成住壊だが、滅ではない。それは自動的に補修出来るからである。法はもちろんこの機序を持っているが、我々自身がこの法に同化出来るかどうか、絶えず補修する機序を形成するのは我々の実践が必要だ。 

師父がシンガポールでの法会における講法でこのようにおっしゃった「他方から言えば、われわれの大法が常人社会の中で伝えられており、われわれのことを分からない人や政府機関からの勝手な攻撃を受けています。われわれのことに勝手に定義をつけたり、われわれに対して何かのひどい手段をとったりしています。わたしは、これらの問題にあたってわれわれも自分の方に原因を探すべきだと考えます。どうしてこのようなことが起るのだろうか、われわれ自身あるいはわれわれの指導所、煉功場、またはわれわれの一部学習者がやっていることに至らないところがあるのではないか?如何なる事にあたる時も自分自身の問題として考えることができるならば、その人はとても素晴らしい人で、圓満成就まで辿る道にあなたを妨げる障害はありません。誰でも何かのことに出会った時いつでも外へ向かって探します。「あなたはなぜ私にこのようなことをしたのか?」 心の中に不平を抱き、自分の問題を考えません。これは全ての生命にとって、一つの最大かつ致命的な障害です。いままで修煉しても向上できない、どうやって修煉して向上できるのかと悩んでいる人がいました。誰にしてもトラブルに遭遇する時自分のことについて反省しないことが最大の妨げなのです。自分が苦痛を受け、たいへん不幸な目にあったのに、さらに自ら反省して、自分のどこが間違っていたのかを探す、そこまでできるのは本当に難しいことです。誰かがそこまでできたら、この道、この修煉の道において、そしてあなたの永遠の生命において、あなたを妨げるものはありません。これは本当のことです。」(《シンガポールでの法会における講法》) 
 今では師父のこの法理を反芻して、生命はどのようにして始めて本当の永遠に不滅になれるのか、新宇宙の生命に対する要求が何であるかは法の中に既に教えてくれたが、我々はよく勉強しなかった。きちんとしなかった。 

修煉が進むに従って、私は最近また一つの感想をもった。問題があれば本当に内に向かって探すほかに、正法弟子として、我々は法のために責任を持つことである。そのために、私は内に向かって探すと同時にまた一つの問題を考え、これらの矛盾は法に損失を与えるかということである。多くの旧勢力の邪魔は法に損失を齎したので、我々は絶対にこの按配を否定すべきである。自分自身の問題を解決する時に、どのようにすれば法に損失を与える事が避けられるのか、どのように更に多くの衆生を済度出来るのかを考えるのである。私は正法弟子として、大法により育成される生命として、この二つの面とも欠けてはならない。そのため、私は今如何なる問題、矛盾にぶつかっても、自覚してこの二つのことを考える:一つ目はなぜ私がこの矛盾に会うのか、自分自身に何らかの問題があるのか?二つ目はこの問題は法に損失を与えるのか、もし損失を与えれば、私はどのように法のために責任を持って、損失を避けるのか?これが燦爛たる大道であると私は本当に感じた。私もこれらの一切は師父の恩恵、法の恩恵だと分かっている。これらは自分が静かに法を勉強して、法に同化して得られたのである。法を勉強することは本当に重要である。 

以上は個人の感想で、不当なところがあれば、批評して直していただければ幸いである。

(2)雑念の源を探し、辛く感じたり、胸を痛めたりする時は必ず何かの執着心があり、この時には関連する事柄を捕えて、何十回、何百回も繰り返して自分の心を見直し、この心を見つけてから、もっと深い根源を探す:私のために?自分のために?異なる次元の観念?ずっと繰り返して、それがもう自分の心を動かすことが無いところにまで至って、始めて自分を高めることが出来、そして試練を乗り越えることが出来るのだと思う。 

(3)他人に迷惑をかけない場合、声を出して法を読む。しばらくすると、脳は空の状態になり、早く雑念を排除することができる。本を書き写したり、法を暗記したりすることも良い。 
(4)法を読む時に頭がはっきりしてない場合、(例えば眠い、疲れ等)、いくつかの動功をして、眼を覚まさせてから、法を読み、発正念すると効果が良くなる。 

以上は私自身のちょっとした感想で、皆さんは本当によく法を勉強し、形だけではなく心が伴った勉強をし、お互いに自分をより一層高めてほしい。不当なところを、指摘し直してくだされば幸いと思う。