日本明慧


内に向かって探し、内に向かって修める

【明慧ネット2003年11月10日】最近同修達が非常に難解であると感じていることがある: 長い間修煉したにもかかわらず、何故自分はまだ様々なものに執着しているのか?

ある同修は言う、問題が起きると内心では、取除かなければならない執着があることが分かるが、非常に長い時間をかけてもその根源が見つからない。ある同修は同時に疲れを感じ、気が緩み、仕事をしても効率が悪いと感じる。私自身も体験したが、修煉が最後に近づくと、過去に取除かれていない一部の観念や執着が露出する。既に放下したと思っていた執着が更に深い根本から露出する。実は何も緊張することはない。これらは皆良い事である。修煉においては最後の瞬間まで修めるものがある。師父に対する、そして大法に対する信念が如何に堅く純粋であるかの他に、嫉妬心、闘争心、事を成し遂げようとする心、そしてその他の転法輪の中で述べられた執着等。

修煉の後期においては、修煉者は当然更に徹底的に、自分の空間範囲内の旧宇宙に染まった変異物質の全てを、一掃しなければならない。そうしてこそ新宇宙の要求に合う清純さに到達することができる。

一方それは、邪悪の妨害でもあり得る。特に早くに放下するべきであった執着を認めたくなく、真剣に努力しなかった修煉者はそうである。このような情況においては、旧勢力の配下は隙を利用し、その執着を拡大させ、これらの後天的な悪い思想、観念、習慣が自分自身であり、どうしようもないと思わせ、消極的にそれを受け入れさせる。

私が見るところでは、衝突に出逢った時、多くの同修は心中法の要求をすぐに理解する。だから一部の人は自責したり、すっきりしない気分になる。しかし自分を責めるのみに留まり、執着を放下しないなら、更に内に向かって探す必要がある。何故なら自責は修めることと同じではないのだから。この引き延ばす癖の背後の理由は、自分対自己イメージ評価から生まれた衝突による面子を求める心、又自分が正しいと証明したい心を放下出来ないことによる。しかしこのような執着は全て新宇宙へは持って行くことができない。

「内に向かって探す」と「根源が分からない」ということについて、私は最近法の勉強の中に理解を得た。それは、「内に向かって探す」ことは「自分を修める」ことであるが、「内に向かって探す」ことは「修める」為であり、「探す」為にやることではない。

師父の説法の中に「内に向かって探すこと」と「内に向かって修めること」は、常に述べられており、我々に内に向かって探すよう言った。しかし1999年5月、カナダ法会にて、師父は「内に向かって修める」について説明した。

「修煉とは自己の内面を探し、自己の欠点、執着、良くない思想を見つけ、良くないものを取除き、より良く修める為の方法を探すことです。」(非公式訳、カナダ法会における説法)

私は師父が、内に向かって探すことは、内に向かって探すことの為にやることではないという、同じ理を述べていると思う。探すことは過程であり、内に向かって探すことの目的は自分を修めることにある。しかし我々の観念が法の理解を限るので、しばしば衝突が起きると、特に忙しい時など、つい探すことを目的としてしまう。それで内をほんの少し探し、執着の根源が見つからないと、「後で考えよう」という態度を取ってしまう。実はこれでは基本的に何も正されず、変わらない。又は、内を探した後もまだ、自分が正しく相手が間違っていると感じる。法の中に自分を支持する言葉や文を見つけることさえする。この時点で、この修煉者は自分が修煉の仕事を成し遂げたと見做す。(修煉を「成すべき仕事」とし、「成し遂げる」心理で「三つの事」を扱う)。実際これでは本当に修煉していると言えない。何故なら、真に修煉するなら、法の勉強の中で自分の執着を見つけるはずだから。それは、全ての大法弟子は師父の法身に見守られているからである。あなたが修煉したいのに、師父が面倒を見ないことがあろうか? (これは又師父と法に対する正しい信念があるかどうかの問題でもある。)

逆に、内に向かって探し、執着の根源が見つからないなら、このこと自体、もっと真剣に平静になって内面を修煉するよう促すに足る。害してこれは法の勉強を形式的なこととし、自分は良く修煉していると見做す結果起きることである。これら二つの心理は法の勉強において、法を学ぶことを妨げるから。師父は、煉功してもなぜ功が伸びないのかの、二つの理由を述べた。

「高次元の法が分からないために修煉ができないことと、内へ向かって修煉せず、心性を修煉しないので、功が伸びないのです」。(転法輪)

真に心のなかで法を学ぶことができないなら、修煉を導く高次元の法がわからない。このような情況では、心性を高めることを言ってもしかたがない。似たような衝突が現れ続くかもしれない。実はこれは正に内を探して修めることにより、心性を高めるよう促しているのである。

2003年11月10日