日本明慧


機会を逃さず真相を伝える

2003年11月11日 文・大陸の学習者

【明慧ネット】「長い道のりは既に尽き、深い霧は徐々に散る」と師父はおっしゃった。法を正すことの終わりは近づき、世の人を済度することに残された時間も、少なくなってきていることであろう。真相を伝える縁と出会ったならば、その機会をしっかりと把握してこそ、多くの縁のある世の人を済度することができると思う。
 
医師である学習者が次のようなことを語った。師父への敬意を表すために、古寺に線香を買いに行った時のことである。渡されたおつりが五元多かった為、直ぐにその五元を販売している人に返した。相手はとても感激して、「あなたは本当に良い人ですね!」と言った。その学習者は、「人間として当然のことであり、他人の利益を無断で得てはいけないものですから」と返答し、その場を離れた。しかし、帰る途中で「なぜ、自分が法輪大法の学習者であると言わなかったのだろうか?なぜ、相手に大法の真相を伝えなかったのだろうか?」と、悔しくてたまらなかったと言う。もし、その時、その真相を伝える機会を掴むことができたならば、よい効果が得られたことは、言うまでもないことである。

わたし自身もこのような経験があった。正念が強くなく恐怖心が働いたため、事が起こっても大法をもって測ることができず、その縁を見逃してしまった。また、教師をしている学習者が、自分の経験を次のように語った。街へ出ると、しばしば果物売りに、「買いませんか?」と、熱心に呼びかけられていた。当初、全然気にはしていなかったが、後に「表面からすれば、これはわたしに物を買わせるための呼びかけのようであるが、しかし、法の立場に立ってみれば、これは一つの機縁の表れかもしれない。相手の分かっている一面からの呼びかけではなかろうか」と、悟った。それ以降、このようなことに出会った場合、必要でなくても必ずその商品を買うようにした。物を購入しながら、慈悲心をもって大法の真相を伝え、相手が理解をしたら、次に真相の資料を出すようにし、とても良い効果が得られたと言う。

この学習者の考えと実行したことに、わたしは大いに啓発された。このようなことは、誰でも遭遇するであろうが、問題はそれをどう見るかということである。ある時、街を歩いていると、「靴を磨きませんか?お安いですよ」と、靴拭きが声を掛けてきた。その時、わたしはこのように考えた。「大法の弟子として、お金は使うべきところに使わなければならず、他人に自分の靴を磨いてもらうことも拙いことである」と。しかし、これは常人的な考えではなかったのではないか?

友人と会った際、「友、遠方より来る有り、亦楽しからずや」と喜んだが、別れた後、「おや?なぜ真相を伝えるという大事なことを忘れたのか?」と、はじめて気が付いたのであった。実は、これこそが、友人に対する最大の無責任ではないかと思う。ある時は、自宅に来ている家電修理業者の人に、お茶を出したものの、肝心なことを伝えることを忘れてしまった。

今にして、やっと覚めてきたようである。これらの習慣は、いずれも旧い勢力の按排であり、真相を伝えることへの妨害であると思う。あらゆる機縁を把握することができ、真相を十分に伝えることができるならば、旧い勢力の按排を完全に否定し、師父が按排して下さった道を歩むことになるということを認識した。

縁起を逃したならば、それを補うしかないであろう。今年の八月、母が亡くなった。とても重い気持で故郷に帰ったが、情の中に溺れることなく、長年会っていなかった親戚や友人らに大法の真相を、伝えなければならないと決意した。葬式という特別な場は、真相を伝える絶好な条件と機会であろう。葬式の習慣を尊びながらも、機会を逃さず参列者へ真相を伝えていた。村には学習者がいなかった為、法輪功に対する理解は乏しく、テレビや新聞などの宣伝をそのまま信じていたようである。しかし、今回真相を伝えたことにより、人々は法輪功の真相が判ったのみならず、ある人はその場で本を読み、煉功をしたいと言った。このように、わたしは葬式の間中、真相を伝え続け、身も心も落ち着き軽やかになった。

今こそ、生命が回帰するための絶好の機会ではなかろうか。多くの学習者は、歴史上において、かつて誓ったことがあり、重大な歴史的使命があるのだと思う。如何なる理由があっても真相を伝えなければならず、真相を伝えず、あるいは真相を伝える効果がよくないのならば、それは問題があるに違いないと思う。邪悪はすでに息も絶え絶えとなり、法を正すことは、目の前に迫っていると感じる。大法、衆生及び自分に責任を持つために、あらゆる機縁を大事にし、師父の法を正すことを助け、衆生を済度し、歴史上の大きな願を成し遂げるべきではないかと思っている。