日本明慧


入定した時の一幕

2003年10月31日 文/小蓮

【明慧ネット2003年10月31日】 

前書き:

カレンダが無情に捲られて行く内に
この大窮の劫難は間もなく歴史になり
法を正す時期に巡りあった我らは
自分の修煉の道を振り替えてみれば
毎一歩にも師父の無限な慈悲が含まれている
目障りな霧を振り払って
大法の殊勝と偉大さが目の前に現れ
僅かな体験を書き残して
“真善忍”から生まれた神話とする…… 

昨日、入定した時、たくさん殊勝な場面を見えた。これを文章に整理して、皆さんの参考になればと思うが、次元には限りがあるので、法を持って師とすることを忘れずに。

入定したばかりの時に見えたのは、ある空間の中に無数の正神が方陣のように整列しており、僅かに残されている邪悪な生命は一生懸命に最も表面の空間へ逃げ込んでいた。法を正す最後の段階に近づくにつれ、表には邪悪の表現がより強暴になり、完全に理性を失っていた。人間の空間での表現としては、嘘を作って大法を誹謗し、残酷な手段で監禁した大法弟子を迫害している;邪悪は大法弟子がまだ取り除いていない執着心を増強し、これを利用して法を正すことを邪魔し、破壊しようとしている。具体的な表現として、今までよくできていた学習者に自慢と安逸の心を生じさせ、常人の雑用に巻き込んで、常人のように生活させ、或いは酷い迫害を受けさせる;また学習者と学習者の間の情を利用して、“交流”や“法を正す”などを口実にして、大法弟子の時間と精力を消耗させている。甚だしい場合には衆生を済度するために使うべき大切な財源を無闇に転用させてしまう;あるいは学習者に存在している恐怖心や無頓着を利用して、ネットに発表された“迫害真相”を読ませなくし、全体で協調して力を発揮することを抑える;更に法を学ぶ時と正念を発する時に、邪悪がそれに対して全員を動員して干渉や邪魔をする。

最後の最後に我々はしっかり自分の修煉の道を歩むべきである。これは自分に対しても、衆生に対しても責任を果たすためのとても重要な一時である。

以上の場面を通り過ぎた後、私はまた別の空間に入ったようであった。そこは透通っている空間に青い空、緑の樹林、澄んでいる河川があり、とても美しい。そこの生命や物質はすべて透明なものであり、優しく色とりどりの光を放っていた。これを見ていると、天空に最も殊勝な素晴らしい場面が現れた:空に美しい彩雲と共に無数の蓮の花が現れて、そして師父が現れた。師父は七彩万層透明の蓮花座に坐って、金色の袈裟を巻いていた。
片手を胸の前に立て、各種の功能や法器を放して、無量の佛光が普く大窮を照らし、各種の美しい法楽が流れていた。無数の花が舞い降りて、様々な形をしている法輪が飛び廻っていた。その後、歴史の書物のような物が現れたが、この書物はもうすぐ閉じ合わされようとしていた。これを見た私は次のことを悟った:歴史のこの一ページはもう終わりに近くなっているから、この最後のチャンスをしっかり掴むようにと我々を促している。
 以上の場面が通りすぎた後で、私は次に金色の法船を見た。これらの法船は一層一層に並べられている。大法弟子の次元の違いによるものか、法船は大きさも形も違う。法船の上に乗っている大法弟子は全部無量宇宙の主や王の形象であり、透明の身体に様々な色彩が光っていた。一部の弟子は手の中に正法時期に使っていた筆や横断幕などの物を持っていたが、これらのものはすべてその空間の法器に変わっていた。その空間の衆生はとても敬虔な涙を目に溜めて彼たちの主や王に奉仕していた。彼らのその純粋な気持に私はとても感激した。
 この時、私は突然“慈悲”のもう一面の意味が分かったような気がした:慈悲は受け止めることである。神は衆生の目覚めの一念だけを見ている。その他の業力や怨念などはすべて師父によって取り除かれて、つまり受け止められたのである。その山ほど多くの黒い物質を取り除くためにどれほど苦労しただろう。その代わりに、済度された衆生は永遠に彼たちの王や主に限りなく感謝している。だが、衆生たちは我々の師父に対しては何にも知らない……。

入定から出た後、私の涙は瀧のように流れ出した。もう精進できない口実を探すことは出来ない。今は正しく“瞬間で永久を定める”時期である。師父の我々に対する期待に答えるため、そして我々の助けを待っている衆生のためにも精進に励まなければならない。