日本明慧


二言三言:“心を法の上に置く”と“法を心に置く”

文/大陸大法弟子 

【明慧ネット2003年11月12日】師父が評注された文章《金佛》を学んだとき、第七段落の中のある一つの言葉をいつも読み間違えた。「(本当にいつでもどこでも)法を心に置き(断たず自分と対照する)」。私がいつも読み間違え、「(本当にいつでもどこでも)心を法の上に置く……」。間違いの回数が多くなると、その区別に気づいた。 

「心を法の上に置く」は私が文章を書くときに、大法の仕事に関して常に使っていた言葉で、この言葉を分析すると(注釈:私自身のこと、他の修煉者はそのことが無いかもしれません)、“法”に言及したのは実は“大法の仕事”、ようするに「心を“大法の仕事”に置く」、常人の「一心に仕事に熱中する」の感覚に似ている。強調しているのは、大法の仕事にどれほど身を投じているかであった。 

しかし「法を心に置く」の “心”は心理状態を指し、大法の仕事が修煉の一部分である(ひいては平素の言行)と見なしているかどうか、心は常に法が置かれているかどうか、いつでも修煉者であることを認識し、対照し、自分を修めているかどうか。まるで《金佛》で言われたように、「長期に寝食を忘れるほど大法の仕事に熱心に取り組んでも、時々刻々の思想は大法弟子があり得る状態に相当しません 」

こう比較するとはっきり見分けることができた。前者は“する”、後者は“修める”である。これが私が読み間違えた原因——私はずっとするべきことをするが、修めることではないということです。