日本明慧


この上ない栄光

大陸大法弟子筆

【明慧ネット2003年11月12日】師父は大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説にて言った、「大法弟子として、皆さんが今日師父と一緒に法を正すことができ、将来皆さんを待っているのが何であるかは、私は皆さんに具体的に言ったことはありませんが、今日それに少し触れておきます。それは歴史上かつてない至高この上ない栄光なのです。」

私はそれがどのような栄光であるのか分からなかったが、2日前、座禅中に足の激痛を感じている時に突然一点が明白となった。その日の座禅は非常に痛かった。いつもならこのような事が起きると、「耐える」だけで、苦痛が出来るだけ早く終わるよう望むのみであった。ところが苦痛中突然理解したのは、「ここでこのように煉功できることは、一個の旧宇宙生命にとって、実はこの上ない栄光」であった。

宇宙中で最高に幸運な生命として、私は何故「耐え忍ぶ」のか?何故終わるのを待ち望んでいるのか?根本的にこれは正念ではなかった。

実はこのように心を動かしたのは、「師父と大法を賞讚する(師父註付)」を読んだことから始まった。読後非常な衝撃を受けたが、その当時は自分の思いを整理するのが難しかった。本源から表面に到達するには、過程を経過しなければならなかった。

その後、このように衝撃を受けたのは私一人ではなかった事を発見した。明慧ネットにこのような記事が継続し、次々と私を動かした。ある日私は明慧ネットで「師父と大法に対する私の認識」を読んだ。「師父は私にとって何であるか? 答は簡単である: 全てである、私の生命の意味の全て、自我に戻り最終的に帰属する処へ戻るための全ての努力。師父の目には私の生命は一粒の埃のように微小である。師父にとって実は何者でもない。師父は私達を創造したが為に、大切にしている。私は自分が存在出来ることと、修煉出来ることで、師父に感謝しなければならない。もしもある日私に栄光があるなら、それは師父の栄光を分け与えられたのである。私には元々何もなかった。全ては師父が与えてくれたものだ。私は師父に何を献上すれば良いのか? 師父が与えてくれたものを献上するのか? 実は私達が師父に献上出来るものは、人間の心を取除いた後の純粋な心のみである」。

この記事を読んだ時、私は涙を押さえられなかった。それは生命の本源から出たものであったと思う。幾層もの天体と宇宙を貫き、私の身体の表面に反映したのだ。この弟子は、私が言いたかったことを書き表わしてくれた。しかし、実は彼が書いたものは、彼自身が人間の言葉で表現出来る限りの、ほんの少しにすぎない。何故ならそれは生命が昇華して新宇宙に入っていく、比類無き輝かしい過程を述べたのであるから。

師父の洪大な法を正す勢いが、ある非常に深い処に触れており、弟子の心に反映していると感じた。「師父と大法を賞讚する」に始まり、数日毎に深く動かされた弟子によって書かれた記事が明慧ネットに掲載された。これは「金の佛(師父註付)」が掲載されるまで続いた。

「金の佛」に述べられた屠殺屋は、修煉をしたことがないようであるが、彼の一念は真実であったので、十方世界を揺るがした。彼は佛を敬い、佛に対する心は全てを捨てる程にまで到った。佛を見たことはないが、二人の修煉者が佛に会いに行くと聞いただけで、自分の心臓すら取り出し、この世の一切をその瞬間に完全に捨て去った。正直に言って、そのような情況で私は同じことが出来るだろうか? 分からない。

しかし、その屠殺屋には出来、彼は金の佛に成った。

「真の修煉とは、心を修煉することにあります」(転法輪)、あらゆる説法の中で師父は、心のみを見る、と繰り返し強調した。歴代の修煉法では修煉の実質をはっきり言わなかった。いずれも、この方法、あの方法、佛を拝む、香を焚く、善を行なう、寺を建てる、修行、苦行、等々を廻って講じた。実際は真の修煉とは、その心を修める。心性がその基準に達すれば、即ち修煉を達成したことになる。こんなに簡単なことであった。

もう一度あの二人の修煉者を見ると、彼らは長い間修煉してきた。無数の苦難に耐えて来たに違いない。しかし、ついに自分の目で佛を見ることが出来た時、完全に信じきることが出来ず、自分の実利を見なければならなかった。屠殺屋との心性の境界の差はなんと大きかったことか! 千辛万苦を経て来たにもかかわらず、彼らは自分が固守してきた執着を放下することが出来なかった。全てが偽物であり、幻想であり、幻が一瞬にして消えたとたん、真相が現れ、「二本の油條(長い揚げたパンのようなもの)」となってしまった。

師父は言った、

廟を建て神を拝む、実に忙しい
追求は空に終わることも知らず
愚かに迷い、西天への路を夢見る
盲者のように夜道を探り、水中の月を掬う
(「有為」非公式訳)

今師父の言葉が耳の中で雷のように轟く。

「実は『転法輪』を読んだため、人体の表面において少しばかりの福分を得た以外は、何も得られませんでした。そういったよくない心を抱いていれば、何が得られるでしょうか? 人よ! 考えてみてください。何を信じるべきか、何を信じるべきではないのか、何の為に修煉するのか、誰の為に修煉するのか、生命は誰の為に存在するのか、皆さんがこの利害関係を正しく扱うことができると信じています。さもなければ、皆さんが失ったものは永遠に二度と現れてこないものです。大法が人類の前に現れた時、皆さんが失うのはこれだけではありません。」(「大法は利用されてはならない」精進要旨)

この事は些細なことや冗談ではない。私はもう長年修煉しており、1999年7月20日から四年以上が過ぎた。もしも私が未だに修煉とは何か、法を正すとは何か、はっきり分からないなら、これはひどい「笑い話」である。実はこれは笑い話ではなく、自己に対して責任を負えるか、自己の生命の永遠に対して責任を負えるかどうか、そして自己の世界の範囲内に存在する無数の衆生に対して責任を負えるかどうかの問題である! 自分が成した大法の仕事の微々たるものや、名利心や欲望を振り返って見ると、実に憐れで滑稽であった。何が責任者か、何が能力か、これらは皆師父が、私達が新宇宙の法に同化する為に与えてくれた機会ではないか? 私のような、全身業力と汚い思想に満ちた生命、法を正すのでなければ旧宇宙の破滅の中で灰になるべきであった生命、そして壮大な宇宙の中の微小な埃にも値しない生命が、このような機会を与えられ、師父自らの教えを賜り、「真善忍」の大法を授かったとは、何という栄誉であろうか! 将来師父がどのような栄光を与えてくれるのか分からないが、思うに、今日自分の耳で師父の説法を聞き、更に師父に従って法を正すことが出来るのは、これは既に生命にとって想像以上の、この上ない栄光である。

私はやっと分かった。実は私がどんな能力を持っていても、それは他人より良く出来るのではなく、それは師父が私に与えた能力である。師父は私が人を助け、長年の念願を達成出来る機会を与えた。師父は同じ能力を他人に与えることも出来、彼らは私よりも良く出来るかもしれなかった。もしも私が責任者になったり、重要と思えることを成し遂げたりしたなら、それは私が他の人よりも良く出来るからではなく、師父が私に自分の不純さを曝させ、欠点が同修達によっていち早く見つけ出される機会を与えたのだ。それは私に他人がもっと成功する助けをさせ、私達がより純粋になり、史前の大願をより良く達成させる。師父は他の人にそのような機会を按配することだって出来たのである。

もしも私が責任者でなくなったなら、又重要と思える仕事をしなくなったなら、私は師父に更に感謝すべきである。何故ならまた違った機会を与えられたのだから。

これら全ては師父の限りなき慈悲によって創り出されたのであり、私達に与えられた機会であり、洪大な佛の恩である。とるに足らない小さな私であるが、そのような機会を何度も繰り返し与えられたのである。「感激する?」、私はそれに値しない。

過去を振り返ってみると、個人修煉で放下出来なかったことは、実に可笑しく、危険であった。これが実は旧宇宙が破滅に向かっている根本的な原因であると、私は理解する。これは又、大法弟子達が法を正す中で解決しなければならない根底の問題であり、基点であり、そして徹底的に旧勢力の按配と迫害を否定し、新宇宙の完全に新しい生命へ向かう為の最大の障碍でもある。修煉とは何か? 旧宇宙にもそのような概念があった、一生命が修煉することによって更に高級生命となる。彼は成就したという感覚を持つ。本当にこのようである。彼は想像も出来ない苦難に耐えて、人は彼のことを非常に偉い、光芒万丈な偉大な神であると思う。実際、更に高い次元から見れば、「成就」だとか「修煉」といった概念はない。師父が言った通りである、「それより更に高い次元になると、修煉などの概念もなく、選択ということしかありません。」(2003年旧正月十五日米国西部法会での説法)

一部の弟子は非常に大きな迫害を受け、自分が多くを耐えたと感じているかもしれない。一部の弟子は正念をもって、魔窟から脱出した。又一部の弟子は大量の大法の仕事を成した。これらは全て偉いことであり、現在のそして未来の宇宙の衆生も皆、これらは私達の成就であり、威徳であると言うだろう。しかし、もしも私達自身がそう認めるなら、それは正念ではなく、憐れで、非常に可笑しいと言える。

私達は何を成したのか? 私達は何が出来るのか? 私達は何に耐えられるのか? その無辺の罪業、私達が耐えられるのはそれだろうか? もしも師父が、絡み合った業力と憤りの網を取除いてくれるのでなければ、私達は魔窟から抜け出すことが出来ただろうか? 私達は多くの大法の仕事を成し遂げたと思うが、そこには多くの複雑な要素が絡んでおり、どれ程多くの、劫を経て積み重なった負債が、決算されなければならないか、知っているだろうか? 表面的には私達は耐えており、正念をもって突破しており、大法の仕事を成し遂げているが、真相は何だろうか? それは芸術家が素材を選ぶように、師父が私達を選んだ為であり、私達が思うような修煉や成就は何処にもない。はっきりと言えば、旧宇宙におけるすべての修煉は、泥水で体の泥を洗い落とすようなものである。

実は、旧宇宙の「返本帰真」、「修煉」、「慈悲」等の概念は、今日の法を正す時期には何の意味もなさない。何故なら、根本的にこの法を正すことは旧宇宙とは関係ないからである。宇宙中のあらゆる修煉法や、異なった次元のあらゆる選択を使い尽しても、新宇宙に入ることは出来ない。と言うのは、それは新しい歴史であるから。これまでに次期宇宙の新しい歴史の中に入った生命はなかった。これまでに法を正すことを聞いた生命もない。単にそのような機会はなかったのだ。

私達がこのような機会を得たことは、何と幸運で光栄なことであろうか、言葉に表わす事は出来ない。

師父が「修煉」、「返本帰真」等の旧宇宙の名詞を借用して、旧宇宙の衆生が新宇宙の法理を理解出来るようにしたことは分かるが、実は根本的な内涵は、完全に異なる。旧宇宙の観念にあっては、師父の言う「返本帰真」の真の内涵を理解することは出来ない。

「修煉とは何ですか? 私たちは修煉を按配しませんでした。修煉とは何ですか?私たちはそれをきれいに洗い、一歩一歩上へ目指してきれいに洗うことであり、他でもなくきれいに洗うことです! しかし、異なる次元で道を開くと、厄介なこと、苦を嘗めること、業力の消去と修煉として表れ、このように修め、あのように煉ることになりました」。(2003年旧正月十五日米国西部法会での説法)

師父に選ばれた生命として、私達がこの点をはっきりと認識出来るかどうかは、旧勢力による按配や迫害を突破して、新宇宙へ向かって行くことが出来るか否かの根本的な鍵である。

旧勢力は何故やりたいことをやり続けることが出来るのだろうか?「よし、修煉したいのか? ならば、わたしが面倒を見てあげよう。どのように修煉するかについてはわたしが教えてあげる」(転法輪、第五講) もしも旧宇宙の修煉や成就の概念から抜け出せなければ、その按配から抜け出せないし、師父が賜った至高この上ない栄光を感受出来ず、不滅の新宇宙の永遠に決して入ることは出来ない。

座禅中の痛みのことに戻ると、今は私はそれを業力消去と見做さない。それは師父が私に賜った、至高この上ない栄光である。無辺の罪業や地獄のような汚れは、どのように消去されるのだろう? 師父はどのようにこれらに耐えたのか? 煉功中のまぶしい法輪と機制、本体が変化する時のすばらしい場面、私が対応する天体中の無数の衆生が済度され、その罪業が消去され、更に師父が常に身辺にいて私を見守る ─ これが一生命が想像も出来ない至高この上ない栄光でなければ、何であろうか? 

師父が賜った栄光に対面し、「耐え忍ぶ」心で扱って良いものであろうか?

以上は個人的な認識の一部である。不適当な点は御指摘戴きたい。