日本明慧


煉功を怠る癖のある同修へ

大陸大法弟子筆

【明慧ネット2003年12月5日】
(筆者註: 下記は大法の仕事で忙しすぎると感じる同修も含み、煉功を怠る癖のある同修に向けて記した。)

大陸の同修がグループで煉功する環境を失ってから、四年以上になる。四年に渡る法輪大法迫害の間、大法弟子はそれぞれ法を正す時期の修煉の路を歩んで来た。言うまでもなく、皆自発的にそして持続的に法の勉強をして来た。しかしながら、自発的に煉功を続けるということについては、同修間に大きな差がある。私はこれらの煉功を怠っている同修と、私の認識を分かち合いたい。私の取るに足らぬ認識は、単に交流の為のものである。

私と同じ地域に住むある同修は過去五年間、滅多に動功をしなかったことを私は知っている。彼は時々静功はするが、身体の具合が悪い(又は病業消去と呼ばれる)時以外は決して動功をしないと言える。私は彼に、健康を求めて煉功することは、厳格に言うと大法に対する不敬であり、真の大法弟子としての正しい行為ではないと言った。今では日々の煉功を促すグループでの煉功の環境は中国では失われてしまい、毎日煉功を続けることが出来るかどうかは、意志の強さを試されることになる。旧勢力は一部の学習者を淘汰する為に、このような情況を系統的に按配したのだと思える。ということは、自発的に煉功を持続することは、旧勢力の按配を否定すると同時に、自分の空間の怠け癖を取除くことになる。

煉功を怠る同修の言い訳は、「法の勉強を続ける限り、法の認識は深まり、身体は自然に演化される」というものである。その通り、法は万能である。しかしそのような考え方は法に頼り過ぎており、法に同化する為の強い主意識に欠けていると私は感じる。私達の功法は、法が人を煉る功法ではあるが、それでも功能を加持し、多くの生命体を演化し、功力を強め術類を演化するのに、動作が要求される。師父は「法輪大法の特色」(転法輪第一講) にて、動作の重要性をはっきりと説明した。更に大法弟子が大法の無限の力を利用するのは、不条理である。努力無しに収穫を得ることを期待するのは、ずるく、不純な考えである。

一部の同修は、1999年7月20日以前にもう十分煉功したので、圓満成就の為に身体を演化するに足ると思っている。彼らは又、個人修煉期間は過ぎたので、煉功の要求条件は緩めても良いと思う傾向がある。私の粗末な認識では、このような考えを持つ同修は、自分の修煉の路を自分で按配しようとしている。大法の修煉は無限である。圓満成就するまでは、私達は大法弟子に要求されるものを全て満たさなければならない。常人の間で生活し、日常生活を按配し、真相を伝え、正念を発し、法の勉強もすることは、時間的に非常な緊張をもたらすことを実感した。十分な時間があると感じることはまずない。一人の同修が聞いた、「今日は私は一時間だけ自由時間があるのですが、どっちをやるべきですか? 煉功するか、法の勉強をするか」私は断固として言った、「法の勉強をしなさい」! 私達は皆、法の勉強が最優先であることを知っている。毎日法の勉強の時間をとることは必須である。郊外の農村に真相を伝えに行く日は、私は本当に法の勉強の時間や場所がない。しかし、寝る前に法を暗唱する。法の勉強をしたのでなければ、私は寝る権利がないと、自分に言い聞かせる。実際私はその日の「最も重要なこと」を終えたのでなければ、眠りに落ちることが出来ない。

煉功方面に関しては、1999年7月20日以来、最初の一年間は毎朝動功をし、毎晩静功をし続けた。過去数年、正念を発することに時間をとり始めると、動功と静功を一日毎に交代して行なった。しかし、時には五通りの功法を全部行なう日もあり、時には全く行なえない日もある。幸い私達の功法は便利である。第一功法を、子供達の朝食を作っている間に行なう。第一、二、そして三功法は各々、十分しか掛らない。それに大陸の同修達の多くは最早、時間やスピードを測るのに音楽を必要としないので、煉功するのに便利である。第二と第五功法は、夜行なうよう努力している。

時々怠慢になり、煉功を怠たった。昨年ある同修に遭い、怠け癖を抑制するようになるまではそうであった。彼女の行動は実に私を動かした。彼女は、遠い処にある高校へ行き始めた子供がおり、毎朝四時半に起きてその子の朝食を作る。その結果、彼女は早朝煉功をする時間を失った。彼女は一時期その事が非常に不満であった。しかし、朝の内に煉功をしなければ、その日は煉功をする時間がない事実に気付いた。それで彼女はやはり早朝に煉功する決心をした。以来、彼女は三時半に起きて、朝食を用意する前に煉功する。彼女の話しを聞いて、私は彼女と自分の間に修煉上の大きな差があることに気付いた。私達は機を逸することなく、毎日を修煉の為に過ごさなければならない。自分が修煉者であることを忘れずにいれば、煉功を怠ることはないだろう。私は何も毎日何時間煉功しなければならないと言っているのではないことを、ご理解戴きたい。次に私が煉功を怠っていた期間(4、5日)の体験を話させて戴きたい。私の体験が同修を煉功へと、奮い起たせるよう望む。

ある晩私はベッドに横たわっており、大変疲れており、今にも眠りに落ちそうであった。しかし私は、もう何日も煉功をしていないと、自分に言い聞かせていた。半分眠りながら心の中で、起きようか、どうしようか、と苦悶していた。ついに私は心の奥底の「私は煉功したい!」という一念により、煉功をさせない要素に打ち勝った。その一念を発したその瞬間私の体の中で、あらゆる生命体が元気付いて頭を上げ、列を作って並ぶのが見えた。一瞬、私は言葉に言い表わせない感動を覚えた。彼らは煉功を渇望していたのだと感じ、そして私は彼らに負うものがあると感じた。私はこの文の題を「無数の生命体が煉功を渇望する」とし、各同修に私達の身体の中で無数の生命体が、私達が一時をも惜しんで煉功をするよう渇望してることを言いたかった。それに、第二功法で法輪を抱えて、地面にしっかり立っている時、私は自分がこの空間にても他の空間にても比類なく輝かしいと感じた。

私がこの文章を書いたもう一つの理由は、一部の同修は自由時間があるのに煉功を怠っていると、気付いたことにある。これらの同修は、時間がある時に煉功せず、煉功を真剣に考えていない。この法を正す時期の重要な瞬間に、何と惜しい、不適当なことであろうか。私達はここまで長い道のりをやって来たのだ。煉功上の漏れがあるべきではない。

同修の皆さん、私達はこれ以上師父にかける負担を増やすべきではない。自分の能力に見合った仕事を、師父に押し付けるべきではない。私達は法を正す時期の大法弟子であり、各方面にて良く行なわなければならない。