日本明慧


正念が邪悪を除去し衆生を救う助けとなる ─ 明慧ネットの記事を書くについての認識

陸南筆

【明慧ネット2003年12月7日】ある同修が非常に心を込めて善を奨める記事を書いた。自分の限られた能力を気にし、一語一語語彙を確認して注意深く書いた。結局その記事は掲載されず、彼女は自分の書き方が悪かったのか、それとも認識が乏しいのかしらと悲しく思った。私はこの同修を知っているが、彼女は顕示するつもりはなく、記事が掲載されれば嬉しく思うのでもない。彼女はただ単に、大法は良い、と言いたかっただけである。彼女が如何に注意深く正念を持ってその記事を書いたかを考えると、私も最初困惑した。私は自分の記事が掲載されるのは、私の文章を書く能力によると思っていた。その方の技術が優れない同修に対して、不公平であるように見えた。

私は落胆している同修の助けとなるよう、法理からこのことを認識するよう努力した。彼女とこのことを分析している間、師父がヒントを与えているという感覚が明らかにあった。正念と正しい行ないの智慧が次々と沸き上がって来た。それはまるで登り終わって、高所から振り返って見るようで、一目瞭然であった。話し終わって、彼女と私ははっきりとした認識をもった。それをここに記したい。

1.正念が高まる時、邪悪は全滅する

明慧ネットは法を正す時期に師父が私達に与えたウエブサイトである。それは世間に大法の美を現わし、大穹を威徳と光芒で震撼した。法を正す時期の大法弟子として、大法を証明するために、明慧ネットに記事を書くのは、特別な光栄であり責任でもある。

だから私達は正しい基点を必要とする。邪悪を暴くにしろ、修煉体験を話すにしろ、根本的な目的は自分の観点を表現することに執着するよりは、人々を救い、法を証明することにある。明慧ネットに記事を送った同修は皆、期待と心配、喜びと失望を経験した。その過程で私達は様々な人間的心と観念を、見ることが出来る。法上の昇華を可能にするために、明慧ネットへの投稿に純心をもって対することが、結局は修煉の過程となる。

明慧ネットに掲載された大法弟子による記事は、邪悪を震えさせて衆生を救う巨大な威力があると私は思っていた。今ではよりよく分かる: 大法弟子の記事が採用されるか否かは重要でない。書く時の純心さが鍵である。記事が掲載された時ではなく、正念が高まる時、邪悪は全滅する。この威力は掲載された記事の表面的な文字に限られることはない。もしも掲載された記事だけが法を証明することが出来ると思うなら、私達は自分を低く見過ぎている。大法弟子が純心と正念をもって記事を書くと、大法の偉大な力が体現出来、蒼穹を照らす。この道理を考えた後、同修がその記事を書く時に示した真面目な態度に、私は真に嬉しく思った。その様な喜びは記事が掲載された時の喜びとは全く異なる。

明慧ネットは同時に三種類の完全に異なるグループの読者に対面する: 大法弟子、一般人、そして邪悪。これら三種類の読者の明慧ネットに対する態度や記事に対する反応、そして真相に対する理解や態度、受け入れ能力が異なる。更に各グループ毎に多くの特殊な情況がある。それは一つの抽象的概念ではなく、画一的な人のグループでもない。例えば、一般人の読者は、大陸の政府役人や、特務機関のスパイ、研究機関、情報機関、海外政府、支持する人、理解する人しない人、騙されて迫害に参与したが目覚める可能性のある人等々を含む。だから明慧ネットに記事を書く時は、私達は次の二点を明確にしなければならない。第一に、どの種の読者に向けて書いているのか、そして彼らの特徴は何か。第二に、どのようなメッセージを送りたいのか。この二つの基本点を明確にして、法を正すことの大局と他人の為に言葉を選び、そうして初めて真に真相を伝えて人を救う効果がある。実際同修によって書かれた記事は同修に対してだけでなく、一般人に対しても真相を伝えることが出来る。彼らの正念と信念は文章に染み込み、邪悪除去的作用をする。

もちろん明慧ネットの主要な部分は、大法弟子の交流である。法を正す時期の大法弟子の修煉の正しい方向を代表し、同時に一般人に大法を観察し、理解する窓口を設ける。その為に私達は自分が書く文章を出来るだけ完璧にするべきで、法に対する責任をもつ態度を保つべきである。一部の同修は文章を書く能力がないと思い、投稿する自信がない。実は明慧ネットは真相を暴露し、大法を証明するウエブサイトであり、常人社会のコンテストではないことを明確に知らなければならない。美辞麗句を並べる必要はなく、立派な形式である必要もない。大法を証明する為に、正念の心だけが必要とされる。各人によって文章の書き方は異なる。多くの同修の素朴な言葉遣いで書かれた記事を読むのは、気持が良い。彼らの素朴な陳述は、彼らの法を正す時期の体験のすばらしさを汚すことはない。

同修が文章を書く技術の無さを気にするのは、実に障碍であり、邪悪の干渉であると私は見てきた。私達が修めたのは宇宙の大法である。師父は一切を弟子に与えた。私達は最高のそして最良の教育を受けたのではないだろうか? 神神も転法輪を読んでいるのではないか? 皆師父の経文「智とは何か」(精進要旨)を勉強するよう提案する。もしも自分が十分な教育を受けていないと感じるなら、それは常人の謙遜ではなく、法の認識不足であると私は考える。

2.明慧ネットと編集部の同修を正しく扱う

明慧ネットは、私達が信頼し、尊敬するウエブサイトである。そのウエブサイトが適切に運営されるようにするのは、編集部の同修だけでなく、大法弟子皆の責任である。私達は明慧ネットを正念と記事投稿、そして尊敬と信頼をもって支持する。私の編集部に対する理解を、投稿の角度から話したい。

編集部は世界各地から送られて来る記事を、日々の必要に応じて採用する。投稿した記事が掲載されなかったなら、筆者はまず内面を見て、記事を書いた時の心態を評価し、又記事そのものの適性を審査し、自分を正し、経験を累積するべきである。投稿に対する自信を失ってはならない。私達が行なうことは一切が大法を証明することにある。法を師とし、一切を法をもって衡るべきである。編集部の同修は、明慧ネットの仕事を直接行なっており、責任は重く、自分に対しては更に厳格でなければならない。師父も又明慧ネットの方向を注視している。しかし、非常に明確な一点は、編集部の同修も又修煉過程にあるということである。彼らは自分の能力を使って大法の仕事を行なうという、師父との太古の約束を果たしているのである。何万と居る大法弟子の中にあって、彼らも又大法の仕事をしながら常に自分を向上させているのである。彼らの記事選択の基準は慎重で、法に従うが、法と同等ではない。筆者は一度や二度、自分の記事が採用されなかったとしても、常人のように振舞ってはいけない。

文章の質をより良くする過程は、自己を練磨し、容量を拡大する。簡単に良い文章が書けるのは天性の才能であることが多い。そのような才能を持たない者は、より多く学び、より努力する必要がある。それが普通ではないだろうか? 大法弟子であるなら、努力し、純心を保つなら、全てを速く学ぶことが出来る。常に自分を修煉者と見做すなら、絶えることのない智慧を得ることが出来る。

時には、法会で発表された重要と思える問題が、政治的でないにもかかわらず、 採用されないことがある。ここで私達は、自分の観点の体現や、聞いてもらえない時の失望への執着を消去する為に、師父の教え、「洪大な寛容」、「善意の理解」を思い出さなければならない。

客観的に見て、世界中に一億の大法弟子がおり、明慧ネットに一日100 の記事が投稿され、スペースに限りがある為に10の記事だけが掲載されるとすると、それは残りの90が良くないとか、これらの10だけが法を証明する作用を果たしたという分けではない。時には同様の問題を扱う記事の数を限定したり、法を正す形勢の需要に応じる、又は重要な方向を示す記事だけが採用されたりする。

大法を第一にし、自己の限界から抜け出すなら、物事の本質が見える。純心をもって成したことが最高であると、師父は言った。純粋な正念をもって文章を書く限り、その記事は邪悪を怖じ気づかせ、衆生を救う作用をする。実際、昨日大法弟子として書かれた文章が掲載され、掲載された翌日に筆者が邪悪に走ると、私達は明慧ネットにその記事を取除くように言う。「大波が砂を洗うと、金だけが残る」と言う。記事が掲載されるかどうかは意味を成さない。その記事の背後に存在する、大法を護ろうとする純粋な心が偉大なのである。

当然のことながら、法理上の認識において明晰でなければならない。具体的な仕事をする時、追求することなく、平静な心を保たなければならない。文章を書いている時、邪悪を消去しようと考える必要はない。

3.大法と明慧ネットを保護することを自分から始めなさい

11月18日、明慧ネットは「師父の言葉、師と大法を敬う、から引用する」という題の記事を掲載した。その記事は、師父の説法を引用する時には慎重に行なうよう、そして自己の観点を正当化する為に、師父の法を利用することを避けるよう、注意を与えた。私はある同修のことを思った。彼女はこれと同様の観点を何度も示したが、明慧ネットに投稿するようにと言う私の励ましを、何度も拒絶した。この同修は、堅固な大法修煉者であり、法の勉強にも精進していた。高い教育を受けたが、自分の認識は掲載されるに適しないと思っていた。彼女が何故投稿を躊躇っていたのか理由を知ろうとせず、機会を逃したことを残念に思う。別の同修が同様の観点を示した今、私は本当に残念に思う。私達が良く修めているなら、この確かな意見をもっと早く同修と交流し合っていれば、ズレの出現を正すことが出来ただろう。

この事において、同修と私はそれを正しい基点から捉えていなかった。大法と明慧ネットを護る責任を第一にするのを忘れていた。その同修の観点を聞いた時私は、彼女の提案が投稿の水準に値すると思うことを言い、ただ単に、明慧ネットに掲載される資格があると主張した。私は法を護る事の重要性を思わなかった。問題の重要性を認識した時にすぐ、同修と交流し、私達は、共に正しい修煉の路を進むべきである。彼女に記事を書くつもりが無くても、彼女の案を参考にして、私が書くことも出来たはずであった。重要なことは、最初に問題提起した人が見せ付ける権利があるかのように、誰が大法の為に具体的な仕事をするかではなく、大法を護ることだけが目的である。熟考してみると、大法全体の為になる良い考えを、私は単に「同修の観点」と見做していた。彼女がそれを書かなかった時、私は放っておいた。もしもその時私が書くよう頼まれたなら、私は正しい法の基点から考えることをしないで、自分を「自己」の中に局限し、同修のアイデアを「盗む」ことを恐れたことだろう。

私達一人一人は打ち破るべき人間的観念を持つ。私達は頭をはっきりさせなければならない。私達が法を証すことや法を護ることにおいて、邪悪に妨害させてはならない。「もしも私がやらないなら、誰かがやるだろう」といった考えは避けなければならない。皆がその様に考えるなら、「水無しの三人の和尚」(中国の諺: 怠け者の三人の和尚が水を取りに行くのを互いに誰かがやるだろうと期待しており、誰も行かないので、水が無い)のようである。大法を護ることは各弟子の責任である。明慧ネットを護るのは、編集部だけの責任ではない。一体としての大法は、あなたや、彼、そして私を含む。個人体験の他に、明慧ネットに対して良い提案があれば、直接明慧ネットに提出して戴きたい。能力のある同修は活発に投稿に参与するよう、そして、師父が大法を証す為に私達に与えた、この様な形式と機縁を大切にするよう希望する。

以上は交流の為の私個人の認識である。正しくない事は御指摘戴きたい。