日本明慧


大法修煉者としての作用を十分に発揮しよう

文/大陸大法弟子

【明慧ネット2004年1月3日】私は資料点の学習者です。大法の仕事を結構しましたし、衆生を救い済度することもしましたので、これがまさに法を正す時期の大法弟子だと思い込んでいました。思想の制限により、自分は全体に対して深く認識できず、ある日、子供が私から渡された手製の《転法輪》を最後部分まで読み、“大根気の人”が完全に抜けていることを発見しました。これは師父が私に対して、悟性がとても欠けている弟子に気付かせてくださったのだとやっと認識しました。それは当地には修煉状態が依然として良くない大法弟子が多くいたからです。しかし、私はこのことを念頭に置かず、法を正す道の中で自分はずっと前を向いて前進していましたが、周りの同修と全体は見ていませんでした。上記のことから、私は自分が大根気の人かどうかは重要ではなく、重要なのは私が広い思想、明白な頭脳を持っている大法弟子として、その作用を発揮していなかったことだと悟りました。利己的過ぎたので、自分が発揮すべき全てを根本的に発揮できませんでした。

私は同修に会い交流を始めました。まだ表に出られない同修のその苦しさを目の当たりにして、この交流が遅すぎたと感じました。同修は只ある方面の執着があり、それに阻まれただけであり、又邪悪の迫害の中で、集団的な交流環境が無くなったことに原因がありました。現在師父は法を正す過程は表面まで進んでいます。同修は私たちが少し交流するとすぐ自分が何をやるべきかが分かりました。涙を流し、声を出して泣く同修もいました。現在私たちの地区は全体的に交流を行っており、その効果も非常に良いようです。師父はこうおっしゃいました:“それより更に高い次元になると、業力の消去や苦を嘗めることや、修煉などの概念もなく、選択ということしかありません! 宇宙の高次元ではこのような理であり、誰ができるのかを見て、その人を選ぶのです。これが理なのです。”上記の師父の教えから私は自分がどう修めるか、どう煉るかが問題ではなく、師父の選択に圓容することが重要だと体得し、悟りました。大法弟子も師父の選択であり、自分を良く修めること自体が師父の選択に圓容することです。それは師父がまたこうおっしゃったからです。“私が今日法を正すことの中で行った全て、私が手に入れたい全ては、はっきり言えば、未来の宇宙の選択であり、未来の宇宙の需要なのです(拍手)。旧宇宙の生命として、全ての生命の要素も含めて、法を正すことにおいて、”私の選択の中で、全ての生命は皆私が選択したことにしたがって、その選択を圓容し、皆さんの最も良い方法を出してください。私が欲しいものを改めるのではなく、私の言うとおりにそれを圓容するのです。これが宇宙の中の生命の最大の善なる念です(拍手)。” 師父は一億の大法弟子を選びました。そうするとこれらの弟子の中には、監獄にいる弟子や、まだ表に出られない弟子、またずっと個人修煉の状態にいる弟子などもいます。衆生を救い済度するとともに、これらの問題も私たちが解決すべきなのです。私は個人の圓満はあまり重要ではなく、重要なのは師父が選択したことが圓満したかどうかで、大法全体が圓満したかどうかだと思います。これは真の圓満です。監禁されている同修を救出するについて、交流の中である同修はこう言いました:牢獄に監禁されている同修にはある方面で旧勢力を否定していないところがあり、隙に付け入れられた可能性があります。 私たちは全体をなしているから、牢獄の同修がどうやったかに関わらず一体をなしており、彼らが否定しないとしても私たちは否定できます。これらについて私はあまり深刻な認識がありませんでした。彼らのために正念を発するべきだと知りながら完全に加えられませんでした。常に彼らの空間の外をきれいにしても中は取り除かれないので、牢獄から出られるかどうかは彼ら自身次第だと思っていました。この一念があり、この一念こそが、監禁されている同修の救援の方面での、私への最大の障害となりました。言い換えればこれはまさに旧勢力を認めたことで、旧勢力に私の同修に漏れがあるから迫害してもよいと答えたことになり、同修を邪悪に押しやり、根本的に旧勢力を完全に否定しなかったのです。私たちの同修に漏れがあるとしても、師がおられ、法があり、法の勉強を通じて彼は向上できるので、根本的に旧勢力の参与を許しません。私の心は暫くして決まりました。無条件に邪悪は同修を釈放すべきだと、私たち全体がこの一念を持つとしたら、その結果はどうなるでしょうか?私は牢獄の同修が遅々として救援できない最大な障害がこれではないかと思います。

また私は自分に善の心が足りないと感じました。この数年の迫害により、ひとつの観念が形成され、邪悪があちこちで私たちを探す時、いつも自分は受動的な立場だと思っていました。いつも捕えられるその役を演じ、自分が人間世界の主宰者であり、未来宇宙の主宰者とは思っていませんでした。どうして邪悪はいつも私を探しているのか、あれも私が済度し救うべき生命ではないか、当然のこと理知を失ってやるのはよくありません。いろんな智慧が使えます。また私たちが資料を配る時いつも誰かが尾行していますが、いつも告発されると思うこの一念はすでに善ではないと思います。彼も真相を待っているのではないでしょうか?彼に良くない思想があるとしても、私たちが善の念を動かせば、彼を制約できるのです。それは師父にこう教えられたからです:“ですから、あなたの仕事や職業が何であっても、私にさえ会えば、私はあなたが善の念を動かすようにし、…”と。師父は《法がこの世を正す予告》の中でこうおっしゃいました:“この世で法が正され、神佛が大いに顕れ、乱世の悪縁はすべて善に解かれる。”私は私たちの使命は衆生を救い済度することで、どんなことに遭遇するとしても善で解決すべきだと思います。この方面について認識がもっとよく出来ている同修がいると思いますので、文書にして共に法に基づいて向上できることを希望します。

もう一つは大法の書籍に関することです。大陸では邪悪の迫害により、あらゆる大法の書籍の製作施設が無くなりました。現在私たちは手製で本を作っていてとても困難な状況です。人の観念により、手製の大法の本の表面がきれいかどうか気にし過ぎている同修もいます。そんなに多く数冊(一冊に一講、二講の内容のみ)も持つのは不便だと思います。それで合本を頼むのです。また《転法輪》(大きいサイズ)を持っていますが、他の同修の小さいサイズの本を見ると小さいのを頼もうと執着心を起します。学習者が本を作る困難さについて理解できていない可能性もあります。金さえ渡せば本が手に入ると思うかもしれません。これは本を作る同修にとても大きな圧力と負担をかけます。同時に多くの衆生を救い済度する時間を使ってしまいます。割が合わないのです!同時に師父が法の解説の中で、旧勢力が当初大法の本を燃やしたりした最大の口実は、本が多く、本を敬っていなかったということでした。私たちは必ずこれを以って戒めとし、旧勢力に付け入られる如何なる隙も与えてはなりせん。もし新しく法を得た場合と読む本がない場合については、私たちはきっと方法を尽くして解決します。

少しの認識であり、不適なところについては慈悲なるご叱正を願います。