日本明慧


“寛容である”にはお互いに協力することが肝心です

2004年1月8日 文/Torsten Trey

【明慧ネット2004年1月8日】
尊敬する師父、親愛なる同修:

昨年を振り返った時、私は修煉の過程で、法を正す仕事をする時、自分が揺れながら歩いてきて、時にはよく出来、時にはよく出来ていないことが分かりました。これは私の法に対する理解と、修煉においての自分の向上とに直接関わります。

例えば、私が法の勉強を少ししかしなかった時、迫害と真相を語ろうとすると、いつも力が抜けていて、人の心を動かすことが出来ません。しかし法を多く勉強した時、二言三言で急所を命中出来ます。それは其の時、常に言うべき言葉がすぐ見つけられるからです。

これについてはみな前から分かっていましたが、毎回私たちは確かにそうだと驚喜するのです。時には私はマシンのように法を証明する仕事をします。まるで常人が仕事をするのと同じで、法を証明する作用が働かないのです。他の同修との付き合いの中でも、このようなことは起きました。

例えば、一度ヨーロッパ議会で、私は一人の修煉者と一緒に一部の議員を訪れました。私たちが一人の官吏に会った時、この修煉者は矢も盾もたまらず、私たちの今回の訪問の目的について話し始めました。彼は多弁で、休むこと無く、早口で話しました。私はあの官吏が強いられて、私たちの話を聞いているように感じていると気づきました。私たちは彼には時間があまり無く、既に彼を邪魔していることを完全に忘れていました。私達の良い動機は真相を語る中で殆ど反対の働きをしました。その官吏はひいては疑い始めました。これは私に不安を感じさせ、そして、この同修に対して私は我慢出来なくなり、心で彼に不平をもらしました。私たちがそこを離れる時、私たちは良くない印象を残しました。

それから間もなく、私は又似たような状況に遭遇しました。私と一人の同修が或る官吏を訪問しました。その官吏は単刀直入に時間があまり多くないと告げました。しかし、この好意的な同修は又とても話し過ぎて、その官吏は我慢出来ないだろうと思い、私は又不安を感じました。私達が話し過ぎると彼に良くない印象を残すのではないかと心配しました。

しかし、私はこの同修が話す内容を細心に聞いていると、彼がこんなに多く話すのは非常によいと分かりました。前回と違って、今回私は他の角度からこの問題をみることが出来、この同修の真相を伝える方式に対して、どんどん寛容に受け入れられるようになりました。私は偶々私の方式で一言はさみました。同修にこの官吏は時間が多くないことを注意しました。しかし私の内心は同修に対してとても寛容な気持ちでいっぱいでした。私たちの話し合いはどんどんうまくいき、お互いにもっともっと話したくなりました。私たちは彼と非常に長く話し合いました。元の計画より二倍も長い時間でした。

私は今回の経験を通じて、寛容さは大法に符合するひとつのエネルギー場を創造出来ると分かりました。このエネルギー場によって、その官吏は時間が多くないにも関わらず、私たちとの話し合いにおいて益々寛容になりました。只話し合いの中で、私はこの二回の話し合いは、最初はよく似ていたが、同修に対し寛容であることよって、話し合いの結果にも変化が生じることに気づきました。まるで師父が《2002年米国フィラデルフィア法会での説法》で説かれたように:“ある神がある方法を提示した時、彼らはそれをすぐに否定し、自分の方法を示し、自分の方法が最も良いと言うのではありません。彼らは他の神から出された方法の最終結果がどのようなものなのかをまず見るのです。”“更に、足りない所があれば、無条件で黙々とそれを補い、圓満させます。”

この時私はまさに上記の法の含意について真に理解出来ました。その前までの数回の大法の仕事の中で、私は同修との間で互いに批評し、不平をもらしたことがありました。他人を批評する事によって、大法の仕事中、私は自分自身をも妨害するようになり、更に自分の創造性が弱くなりました。今まさに私自身の寛容な心を大きくする時だと認識しました。このことを認識した時、外部環境にも変化が起きました。

私にとって、修煉者が持つこの調和のとれた場は、ひとつの表面形式ではありません。或いは外在的な事務でもありません。私はそれが一枚の鏡として、私たちが法を正す中、責任を負うべきそれらの人々を照らしていると思います。私たちの間で調和がとれれば、人々の法輪功に対する興味が大きくなると思います。もっと正確に言うと:“私たちの間で調和がとれれば、旧勢力は撹乱する空間を失い、人々が迫害の真相を理解することを、引き続き邪魔することは出来ません。”

最初に私が書いたとおり:私が法を勉強し、自分を修煉する時、私は真相をうまく説明出来ます。多くの修煉者が自分を良く修め、互いに調和がとれれば、社会全体に対してよい影響をもたらすでしょう。最近同修との交流から、突然、多くの人々と組織が数人の同修が作ったホームページを訪ねたことを知りました。それは修煉者の正の場が、多くの障碍を取り除いたので、もっと多くの人に大法が理解出来るようになったと思います。

一度インフォメーションデーの活動中、私は新聞を配りました。時時私は感覚が麻痺されたようになり、或いは新聞がよく配れるようなると、また歓喜心が生まれました。この時になると新聞を受け取る人がすぐ少なくなることを発見しました。そして私は内に向けて探します。原因を探しその心を無くした時、新聞を受け取る人はすぐ又多くなります。このことから、正しい心態は大法の仕事において、いかに重要かがわかりました。心態の調整が大法の仕事に及ぼす影響は、其の効果に直ちに現れます。私の心は常人が大法に対して正しく理解出来るかどうかに関わると思います。実際、あらゆることはみな他の次元で発生しており、只表面から見ると、その結果はまるで私たちの仕事の量に関わるようです。例えば、私たちは数千通の手紙を出しました。私たちの心態が純粋な時、これらの手紙はあるべき作用を発揮すると信じます。私が見たところ、この心態は寛容と緊密な関連を持っています。

師父は経文《忍とは何か》で説かれました:“忍は心性を高める鍵です。”私は、人は時には自分の立脚点と観点を放棄して、他の同修の意見をよく聞くべきだと思います。まるで師父が《2002年米国フィラデルフィア法会での説法》で説かれたとおり:“しかし、あなたの意見、方法が採用されるかどうかは重要ではありません。他の人の方法を用いても同じ効果に達し、自分の方法に執着せず、かえって他の人の方法に同意し、……神にはそれが見えるのです。「ほら、彼には執着の心がなく、こんなに度量があって寛容なのです」という具合です。……しかし、真の向上は放棄することであって、得ることではありません。”

毎回同修の話に耳を傾けると、私はいつも得るところが多くあります。師父は経文《金剛》の中で説かれました:“実は大法に対する撹乱は、我々の内部から生じる場合が多く”と。私は寛容さがこれらの邪魔と弱点を追い払えると堅く信じます。

(ドイツ2004年新年法会発言原稿)

中国語明慧URL: http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/1/8/64352.html