日本明慧


浩然の正気はとこしえに存在する

——大法弟子劉成軍の追憶

文/吉林大法弟子

【明慧ネット2004年1月15日】偉大な生命が1年9ヶ月の残虐な迫害を受けて逝去した。私は訃報を聞いて驚愕し、涙が絶えず流れた。成軍は師父に正信して、大法に正信して、衆生に慈悲して世を去り、短くても偉大な一生を終えたが、彼の正法の業績は人の心を感動させた。

私は文章を書くのは得意ではなく、迫害されてからずっと路頭に迷っていたが、成軍と一緒にいた時の事は映画のように頭の中で流れているので、彼の平凡であるが偉大な正法の経歴を書くことにした。

 私は2001年6月成軍と知り合った。当時、私達の地域の資料点は作ったばかりで、時間が短いためいろんな面で成熟せず、いろんな問題があり、設備も常に故障が発生して、学習者の間の矛盾も良く生じていた。しかも、大部分の同修は自分に向かって原因を探すのではなく、各自が自分の意見を堅持しており、資料を作る人も固定されず、資料点は麻痺状態に陥っていた。この時成軍が来たが、これからの資料点は速やかに作用し始め、人員が調整され、私と成軍は資料を印刷することになり、私達は一緒に大法を実証することがこのように始まった。成軍が来る前には機械は常に故障があったが、皆は自分の原因を探すのではなく、何時も外に向かって探したので、その結果機械は良くなったり、悪くなったりしていた。

成軍が来てから、機械は彼に操作されて非常にうまく働き、小さな故障は彼が調整するとすぐ直った。資料を作る時、彼の大法に対する堅い信念、大法の仕事に対する真面目な態度、穏やかな心理状態などは私の心に深く触れた。始めの時、自分は怖がる心が大きく、変異した観念が多いため、資料点に行くと安心できなかったが、成軍と一緒にいると、彼が持っている純正なエネルギー場は私のこの執着心を溶かしてくれ、私の心はすぐに穏やかになった。彼と一緒にいると、いつも向上させてくれる精神があると感じられ、彼の思想の中では機械の音が大き過ぎではないかとか、誰かが来るのではないか、あれこれを心配することは全然なかった。この点だけでも私は彼との距離を発見し、一緒にいる時間が長くなるにつれて、彼に比べると、自分は大きな隔たりがあると感じられ、同じ師父の弟子なのに、同じ大法を学んでいながら、彼はなぜ素晴らしくできるのか? 実はほかでもない「信」である。自分の「信」は表にしか留まっていなく、本質から生じたものではないが、彼の「信」は彼の生命の最も微視的なところから生じているので、これは確かである。

 彼と一緒にいた時、彼の労働矯正所での正法の経歴を聞いて、彼は偉いと思った。ある日私は「成軍さん、労働矯正所にいる時、警察に言われた通りせず、殴られても屈服せず、しかも同修が懲罰されると勇敢に立ち向かったが、あなたはそのためもっと酷く迫害されるとは思ったことはありませんか?」と聞いたことがあった。彼は「当時私はただ私達が良い人間になろうとしているから、無辜に迫害されているだけで、私が正しい道を歩んでおり、正しい事を行っており、大法の法理で自分を要求し、師父の話に従っているので、私は間違ってない。邪悪に迫害されるべきではないからで、邪悪の指揮を聞かないと思っただけで、邪悪が如何に私を迫害するとは考えた事がない。」と言った。彼は、悲しいと思ったのは身体や精神で受けた迫害ではなく、一部の同修が法の立場から法を認識せず、間違っていると知りつつ、恐怖心と利己心を維持するため、邪悪に服従しながら、返って彼を最大限に常人状態に符合して修煉せず、彼のやり方を過激だと思うことであったと言った。彼は、当時自分の心は非常に辛っかたが、師父が説かれた法を思い出すと、彼は自分は間違っていないので、法から離れて常人の心が揺れてはならず、修煉には手本がないと思ったと言った。

あの時は資料点が少なく、資料の需要量が多いため、私達が一組の機械を使っても、毎日非常に忙しかった。どんなに忙しくても、成軍は学法と煉功を中止したことはなく、毎日時間をさいて学法し、自分を厳しく要求した。毎日仕事が終わってから真夜中まで法を勉強し、3、4時に起きて煉功し、部屋を片付けて簡単にご飯を食べてから仕事を始めた。彼の生活はとても質素であり、ご飯をいっぱい食べるだけで十分で、あれが美味しいとかこれが美味しくないなど言ったことはなく、彼にはこのような観念が全くないらしい。ある日、引越ししたばかりで食器がなかったので、彼はオーナーが残してくれた旧いビニールたらいをきれいに洗って、インスタントラーメンを水に漬けて食べた。

労働矯正所を出てから、彼はすべての時間を利用して師父に教えられた三つの事をした。学法、発正念と真相を伝えた。彼は何時も衆生を済度する神聖な使命を忘れなかった。ある日、農安に行って帰る時、封筒に真相資料をたくさん入れて、電車の中で縁がある人にあげた。電車を降りる時、ある老人に善意に真相資料を送ったが、彼が電車を降りたら、虚言に騙された老人はパッと真相資料を窓から捨てた。成軍はこの事に影響されず、平気にそれを拾って相変わらずするべき事をした。彼はすべての機会を逃さずに最も偉大な事をした。冬のある日、彼は赤いラッカーをかばんにいっぱい入れて、氷点下30度の天気に、道端や廊下などに「法輪大法好!」を書いた。書いている時若い人に会ったことがあるが、あの人は黙って見ていた。書いた後、成軍は「法輪大法は素晴らしいことを覚えてください!」と言ったが、彼は喜んで認めた。真相を知らない人に大きな声で叫ばれたこともあるが、成軍は周囲の邪悪に邪魔されず、正念を発しながらラッカーがなくなるまで書いた。彼が帰る時ラッカーの缶を持っていた手は凍って良く効かなかった。

ある日功友は悪人が短期滞在の人を調査しているということを聞いて、成軍と同部屋に住んでいる二人は暫く避けるよう言ったが、成軍は心が動ぜず同修に言った。自分の心が揺れなければ、誰も動かされない。彼は家を離れなかった。結局、家を離れて隣りの芝生で本を読んでいた二人は警察に発見されてトラブルがあったが、成軍は全然大丈夫だった。成軍は大法に対する正信と着実に法を学んで、彼は一つ一つの難関を乗り越えることが出来た。

 2001年10月1日前、成軍は天安門に行って大法を実証するべきだと悟って、私達に言ったが、皆は異なる悟りを堅持した。多くの同修は、資料点の仕事をするのも大法を実証することなので、彼が行くと資料点に人手が足りなくなると思った。彼と分かれるのがつらいと感じて、功友の情に触れた同修もいたが、実は誰も大法を実証する全体の立場から考えず、他人に頼ろうとする心理を持っていた。しかし、成軍は堅く決意して、2001年9月28日に手荷物を持って北京に行った。20日後、彼が帰ってきた時、身体が頑丈で元気いっぱいだった青年は、ひげが長く伸びており、身体が弱く、ふらふらとしている「老人」になってしまった。彼が経験した難は非常に大きいと思って、北京で大法を実証した経験を話してくれるよう言ったので、彼はその経験を話してくれた。 

天安門に着くと横断幕を開いて天安門広場を走りながら大きな声で「法輪大法は素晴らしい!」と叫んだ。警察はパトカーに乗って来て、無理やり彼を車に押し入れて留置所に連れて行った。留置所に入ると、彼は周囲の刑事犯人に「私は良い人で、法輪功を修煉する人なので、誰も私に触れないでください!」と言った。彼の強大な正念で、犯人達は本当に彼に触れなかった。彼は法を暗誦したり、煉功したりした。名前や住所などを教えないので、悪警察は彼を悪名高い北京公安病院に送った。彼は断食、断水を始めたが、悪警察は彼の服を全部剥がして、彼をトイレのコンクリート地面に倒し、身体に冷たい水をかけて、電気棒で感電させた。そして彼をベッドにあげて、両手と両足を鉄製のチェーンでベッドに縛り、無理やりに点滴をした。成軍は「私の手が少しでも動ければ、点滴はささらない」と思った。このようにして、針は刺さらなくなった。20日間断食、断水して、それに悪警察に踏みにじられて、彼の身体は極めて弱くなり、生命が終りにまで達したと感じた。その時彼は偉大な師父のことを思い出して、師父は自分のためにこんなに多く耐えておられるのに、このように死んではいけないと思って涙を流した。この時、カワサギの声が聞こえてきた。これは師父の慈悲な点化であり、自分を励ましてくれているのだと悟って、「私は必ず生きてここを離れ、衆生を済度し、大法を実証しなければならない!」と考えた。この一念が生じると、翌日無条件に釈放された。釈放される時、着て来た着物や靴などは全部なくなったので、彼は死刑犯人の衣服を着て、足に合わない靴を穿いて家に帰って来た。彼の話を聞いて、私達は皆涙が流れた。

これは私が知っている劉成軍のことの一部である。成軍は逝去したが、彼の姿は忘れない。彼は逝去したが、彼の精神は生きている。彼は公明正大に生き、純潔に逝去した。彼の浩然の気は永遠に消えることなく、永遠に私達を正法の道で絶えず精進するよう励ましている。