日本明慧


二言三言:非難と指摘

【明慧ネット2004年1月19日】指摘することは、他人の誤りを相手にらせることを明示することである。非難することは、責める意味を指摘している。先生は講法の中で私達に同修の不足を見るように求めて、善意をもって指摘し、実は私達にいかなる観念を持たないで明示するように求めるので、同修自身に本当に不足が意識的に高まってくることを理解させる。

 しかし私達は法を正す過程の中で、本当に他人の身になって他人の角度に立って問題を考慮することができない。同修の不足を指摘する、自分の観念に加えて、いつの間にか手の中指は同修の不足を指して非難し、このように私達は非難と指摘をすりかえる誤りを犯した。

 旧勢力がこの現象を見た後、私達を更に清浄にさせるために、この要素を強めた。私達にお互いに執着する心を取り除かせて、同修の間で問題が現れた後、お互いが不平をこぼすことをもたらして、お互いに非難して、また独りよがりに同修のためと思い込んで、このわだかまりを解かずに、ますますはまり込んでしまった。そして正法のプロセスを遅らせた。

 師父は『転法輪』第一章で言われた、「わたしは、法を説き、功を伝えるにあたって、常に社会と学習者に対して責任をもつことを念頭において来ました。ですから得られた結果も良く、社会に与えた影響もかなり良いものでした。」「講義の中では、修煉界に見られる良くない現象にも触れる予定です。それらのものにどのように対処すればよいか、どうとらえたらよいかについても、すべてお話ししたいと思います。それから、高い次元において修煉法を伝え、法を説くとなれば、かかわりを持つ問題が幅広く、大きいばかりでなく、非常に微妙な問題も絡んできますので、これらについても明らかにしたいと思います。また他の空間からの、われわれ常人社会への妨害、特に修煉界に対する妨害についても明らかにしますが、同時に、われわれの学習者のためにこれらの問題を片付けてあげなければなりません。」

 この段落での私の理解は、相手の学習者の不足を指摘しているとき、本当に彼に責任を持つような心の状態でなければならないということです。そして良い結果になります。師父が講法の中で、人類社会の現象の時を論じるとき、社会に責任を持つ、修煉界に責任を持つ、人類社会にせよ修煉界にせよまったく非難の意味がありません。そして良い結果がありました。師父のような行いで、私たちも行います。未来の衆生に正確な神になる道を残します。

中国語ネット:http://search.minghui.org/mh/articles/2004/1/19/65229.html