日本明慧


“出来たことこそ本当の修煉である”

文/大陸の修煉者 

【明慧ネット2004年1月14日】最近一人の修煉者と交流した時、修煉者が正しい念、正しい行いで大法を実証した幾つかの出来事を聞いて、とても感心した。このことについて皆さんと交流してみたい。
 
ある修煉者は学校の教師で、授業の時間を利用して学生に法輪功の真相を説明した。このことが一人の学生により報告され、学校からこの教師の授業停止と洗脳クラスへ送致することが決定された。現地の修煉者はこの情報を得てから、すぐ動き出し、先ずこの情報をすべての修煉者に知らせ、皆一緒に正念を発し、同時にこのことを暴露させ、真相資料を作って学校の周囲に配ったり、貼り付けたりした。同時にたくさんの真相説明の電話や手紙が学校に寄せられてきた。すると、状況がすぐ変わった。学校の責任者は洗脳クラスへ連れて行かれないようにこの修煉者を保護し、授業も続けられるようにした。周囲の修煉者はこの事件を通して全体に大きく一歩前進し、修煉者の全体協調の巨大な力をより深く認識できた。今、現地の610事務局の責任者は法輪功のことに対して、万策が尽きたかのように感じ手放し状態である。周りの環境は相当良くなってきた。
 
このことを通じて、現地の人々に邪悪を暴露させる過程で、修煉者は一つの全体としての協調が一致してとれていることの重要性を再認識させられた。“修煉者は一つの全体として、法を証明する中で協調することができれば、法力が非常に大きくなります。皆さんが集団で何かをするにしても、自分一人で何かをするにしても、皆さんは同じことを行っています。これが一つの全体ということです。皆真相を伝えており、正念を発し、法を勉強しているため、具体的な仕事が違っても、担当が秩序良く分担されています。集まれば形になりますが、散ってしまえば粒になります。”(《2003年旧正月十五日米国西部法会での法の解説》)このようにできるために、修煉者の一人一人はできるだけ全体の角度から問題を考える必要がある。法を正す過程の中で修煉者の一人一人の役目が違えば、大法から我々に授かった能力も違う。よって皆同じことをやるに限らないが、心を一つにする必要がある。最大限に修煉者としての知恵と能力を発揮すれば、始めて全体の最大の作用が発揮できる。本当に師父から按排されたように円融させ、できるだけ多くの衆生を救うべきである。今一部の修煉者はまだ法を正す進展に追い付いて来てない。よくできた修煉者は交流を通して全体の向上を促進するためにより多くの努力を払うべきである。(このことに関して明慧ネットにすでに数多くの交流文章が発表されたので、非常に参考になる。)
 
私の所在地域で、一部の修煉者は不法拘束された修煉者を救出するために、常人の人脈を利用して人を頼み、お礼を送るなどの方法を用いている。頼んだ人に真相を説明していたが、このような行為自身は純正なものではないと思う。修煉者を救援するべきであるが、常人の変異した方法を使うべきではない。前文に挙げた例のように正念を持って真相を説明し、邪悪を暴露する方法を使うべきである。我々がやったすべてのことは未来の参照になるため、我々の不純、不正な行為は新宇宙の中に存在するところはない。師父の要求に従って進むしか正しい道を歩むことはできない。
 
もう一例は、一人の修煉者が仕事の関係で一人の悪人の電話番号を知っていた。始めにこの修煉者は悪人の電話番号を公表することを躊躇していた。自分の仕事が影響されることを心配していた。だが、いざ公表した後、真相の電話が次々掛かってきて、この悪人は慌てて電話番号を変更した。そして、この修煉者は更に新しい電話番号を公表した。悪人はまた番号を変更した。このように悪人は番号変更の慌しさに追われて、自分の電話番号が誰によって公表されたかについて調べる暇もなかった。このことを通じてこの修煉者は悟った:本当に師父の要求に従って行動すれば、法の巨大な威力が必ず現れてくる。本当に我々を阻害しているのは、人間の観念だけである。

現地の人々に現地の悪人の罪状を暴露する過程は、修煉者にとって自我を放下し、法に溶け込み、大法に同化する過程である。近辺の悪人の情報を収集する時、邪悪者が犯した罪状を公表する時、一部修煉者にはさまざまな心配がある。邪悪はもっと暴れることにならないか。更に迫害が加重されることにならないかなど。もし衆生を済度する原点から考えれば、これらの心配は法の要求から離れているとすぐ認識できる。我々には私心があるため、邪悪を長く生き延びさせた。これは我々が完全に大法に同化する過程の大きな障害であり、この殻を破らなければならない。本当に破ることができれば、きっと新しい境地に達することができるだろう。もちろん、理性的に、知恵を生かして情報提供者の安全を配慮することも必要である。

もう一つ正念を持って行動する具体的な例を紹介したい。ある地方で数名の修煉者が部屋を借りて真相資料を作成していた。このことが大家に知られた。真相を説明しても大家の理解を得られない状況下で、この数名の修煉者はすぐその場所を離れた。殆どの修煉者は資料の損失に心を痛めるが、人の安全が一番重要なことだと考えていた。だが、一人の修煉者は真相資料が人を救うためのものであり、邪悪の手に落ちてはならないと思った。そして、彼は他の修煉者に正念を発してもらうように頼んで、自分は残されている資料を取りに行った。その場所に行くと、周りにはすでに警察の車が数台止まっていた。彼は正念を持って部屋に入って明りをつけ残されている資料をかたづけて持ち去った。帰った後、彼は他の修煉者に次のように話した:邪悪はよく悪戯をやるね。偽りの場面を作って私を嚇すつもりであった。私は主佛の弟子であり、宇宙の中の最も素晴らしいことをやっているから、邪悪の邪魔は許されない!

警察の車両は偽りのものであるか?そうであるともそうではないとも言える。“善し悪しは人間の一念によるものであり”、修煉者としてどのようにこの一念を発するのか。正法時期の修煉者の原点から邪悪を震わせる一念を発するのか、或いは常人の観念から判断を下すのか。目で見えるものが確かな存在という現代科学の観念は、我々に深く影響を与えた。肉眼の働きにより、この空間の偽りの現象に惑わされて形成されたさまざまな観念は、我々の正念を抑制している。だが、“法は全ての執着を破ることができる;法は全ての邪悪を壊滅することができる;法は全ての虚言を破ることができる;法は正念を固めることができる”(《妨害を排除せよ》) 我々を邪魔しているものは後天の観念である。我々は絶えず法を勉強し、絶えずこれらの観念を破り、絶えず自分を純正にさせて、異なる次元の法の要求を満たして、そして始めて神の状態で正しい念を持って正しい行いをすることができる。

これらのことを通して、私の最も感慨深いことは大法を堅く信ずることの威力である。正しい行いは正しい念によるものであり、正しい念は正しい悟りによるものであり、正しい悟りは正しい信念によるものである。師父はすでに何をすべきか、どうやるべきかという法理を我々に教えられた。一人の修煉者として、本当に心の中で師父の言われたことを信じているかどうか?我々は法を正す時期の主役であることを信じているかどうか?修煉者の正念の威力を信じているかどうか?邪悪を暴露することは邪悪を抑制し、根絶するための最も有力な手段であることを信じているかどうか?もし我々は全体的にこれらの信念を固く持つことができれば、邪悪は自ら消えてしまうだろう。
 
正法時期の修煉者の使命をやり遂げられるかどうか、それは自分自身の選択である。“できたことこそ本当の修煉である”。本当に師父の要求、大法の要求された通りに実行できるからこそ、本当の“信”である。本当の“信”があるからこそ、始めて大法に同化し、大法に円融することができる。今だかって歴史上になかった修煉者は人間が法を実証する時の威徳を樹立し、未来の衆生のために一つの純正な、参照になれる道を残すために精進していきたい。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/1/14/64822.html