日本明慧


転向を認めることは邪悪を認めたことに等しい、大法弟子にあってはならない行為である

文/青山 

【明慧ネット2004年1月25日】『師父の海外電話会議での講法』の中で触れた『静水流深』という本の作者は、北京市(本籍は四川省)の学習者である。この学習者は不法に労働教養された時、虐待に耐えられず、邪悪に転向した。転向の理由として外国に出て大法を実証するためであると言っている。また、この学習者が一人読み書きできない学習者のために保証書を書いて、二人は一緒に転向した。その後、この学習者はオーストラリアへ出国し、そこでこの本を出版した。

師父は電話会議での講法の中で、この本が邪悪を暴露することと世人を救い済度することに対して、ある程度の効果が発揮できると指摘してから、次のように言われた。「その内容から言えば、本の中のたくさんの内容は常人の心で表現したものであり、本を書いて迫害を暴露することに執着していたので、邪悪に転向したという本の中に書かれた部分は、絶対に学習者の中で宣伝すべきではない。転向は何を意味しているか分かりますか? 実は神が見えたのは、外へ出て迫害を暴露したいという言い訳の本音はもう耐えられなくなったことであり、外へ出たい心こそ本当に放下できなかった執着心である。大法弟子は如何なる状況下でも、絶対に邪悪に転向してはいけません。たとえ迫害を暴露するためであってもです。邪悪を暴露するそのものは、大法弟子の修煉の最終目的ではない。よって、また完全に常人の心を取り除いていない学習者に真似させてはいけない。更に学習者内部のインターネットサイトで学習者に宣伝してはいけない。」
 
電話会議の前に、ある海外の学習者(情報伝達の面で活躍している一部の大陸の学習者を含めて)は、法理を正しく理解できず、本の著者と同じ常人の心を持ちながら、この本を読んでいる。また交流会の場で本の著者を中心発言者に担当させたり、学習者の中にこの本を薦めたり、著者本人を称えたりしている。邪悪を暴露させるためという言い訳で邪悪に転向した事実を、邪悪を暴露させるために払った“巨大な犠牲”として称えている学習者もいる。これは完全に間違っている。邪悪に転向したことは邪悪を認めたことに等しい。大法弟子は如何なる状況下であっても邪悪を認めないことこそ大法を実証する修煉である。口実を作って邪悪に転向することは大法と師父を裏切る行為であり、自ら修煉者の資格を放棄する行為であり、大法を破壊する犯罪行為でもある。これらのすべてを神たちははっきり見ている。如何なる理由や口実で隠すことはできない。 
 
キリスト教の信者は歴史上300年間に渡って迫害されても、彼らの信仰を変えることはなかった。中国の歴史の中にたくさんの仁儀の人たちは自分の承諾を守るために命を捨てても屈服しなかった。大法弟子は法を得た生命であり、修煉を決心した瞬間からすでに自分の命を師父に託した修煉者になった。どうして魔難にぶつかった時、自分の信仰と師父を裏切ることができるのか。如何なる理由があっても、大法弟子は決して邪悪に転向した行為を認めたり、真似したりしては行けない。 
 
放下できない常人の情(自我に対する執着を含めて)は、修煉者を強く束縛している要因であり、学習者が魔難に遭い、転向される重要な原因でもある。(もちろん、情を放下することは情けがないことではなく、情けがないそのものは一種強烈な、変異的な情けである。)修煉者は情に執着しては行けない。そうでなければ肝心な時に自分の判断力が左右されてしまい、修煉者の心の容量と忍耐力が局限されてしまう。 
 
熱心に学習者の中でこの本を薦めたり、熱中して読んだりしている学習者は、作者の経歴と労働教養所での体験に共鳴を生じ、正法の基準を忘れてしまった。或いは作者の才能を敬って常人の心で対処していた。或いはこの本が学習者の作品だから、何も考えずに配ってしまった。要するに、この事件から一部の学習者にはまた多く常人の心があることが反映された。いつでも修煉者の正念で問題を見ることがまだまだできていない。今回の事件を教訓にして注意しなければ行けない。
 
国内外の大法弟子は理性、叡智を保つべきである。如何なる出来事によって、我々の大法を実証し、衆生を救い済度する過程を邪魔されては行けない。師父が教えてくださった神の道をしっかり歩んで行くべきである。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/1/25/65749.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/1/27/44476.html