日本明慧


誰がこの家庭を壊したのか

2004年1月18日文/唐山市の新しい修煉者 

 【明慧ネット2004年2月5日】趙氏の家は吉林省農安古城金宇デパートの西側に建っている不動産会社30号ビルの後ろにある:趙華、夫、県聯運会社の職員。張国珍、妻、県煉油工場の職員。二人の間には利巧な一人っ子がいた。普通だとこのような家族は幸せなはずだが、今は人が居ない空家になっていて、とても寂しい。

 趙華と言っても、知てる人はあまりいなが、彼のあだ名を言うと、農安県の町で知らない人はいないだろう。彼は荒っぽい性格で、しょっちゅう殴ったりするので、家族や外の人も恐くて係わり合いにならないようにしていた。職場は不景気で、給料も少なかった。彼は何をしても、いい加減であり、一日中賭け事や酒ばかり飲んでいた。家のことは何もせず、家事と子供の教育は全部妻の張国珍がしていた。しかし張国珍も強い女性で、家族内にはいつも争そい事が絶えず、隣の人も穏やかには暮らせなかった。ある日、趙華は包丁を持って張国珍を追い掛けたので、歩行者達をびっくりさせた。このような暮らしが年間か続くと、明るくて健康的な張国珍は弱弱しい病人になった。彼女は一度離婚したが、幼い子供と離れたくないので、無理やりこのバラバラの家族関係を維持した。彼女は精神の苦痛に病魔の苦しみが加わり、生活に絶望を感じていた。自分も家庭も崩壊しそうになった時、幸いにも彼女は大法にめぐり逢った。その時から彼女と家族の運命は変わった。

 97年11月彼女が法を得てから二ヵ月も経たないうちに、彼女の心身は大きく変化した。そして初めて身体に病気が無いすっきりした感じになった。ずっと昔からどうしても治らなかった胃腸病、ノイローゼなどの病気が自然に治った。自ら大法の素晴らしさを実感した後、彼女は更に “真、善、忍”という法理に基づいて真剣に自分を要求した。夫を叱らなくなり、文句をも言わなくなってきた。夫がお金をもらいに来た時も彼女は柔らかい言葉で話した:今月の給料はこういうふうに予算している。もし貴方が絶対使いたいのなら、私はどういう事を省かなければならないかを説明した。これが何回か続くと夫は恥ずかしくてお金の無心を口に出せなくなった。大男で、家族の大黒柱のはずなのに。彼女は夫が夜いくら遅く帰ってきても、様子を聞いて、お茶やご飯を準備してあげ、少しも文句を言わなかった。

 こういうふうな日々が経って、この “ロバ野郎”はとうとう我慢できなくなり、ある日妻が仕事に行った後内緒で妻の大法の本を読んだ。そして初めて妻の変化の原因が分った。するとその後の何日間は妻が仕事に出ると、彼はすぐに大法の本を読んだり、李先生の講法録音を聞いたりした。ところが思いもかけないことに、何も恐れず、鬼神さえも信じないこの “ロバ野郎”が本の中の法理に深く動かされた。妻が法を得た半年後に彼も法を勉強し始めた。

 その時から、この “ロバ野郎”は昔の悪行を徹底的に取り除いた。酒やタバコ、賭け事などを全部戒めた。昼間は仕事をし、夜家に帰ると妻を手伝って家事をした。息子は生まれて始め思う存分両親に甘えることができた。十数年来で初めて家族に暖かい雰囲気が出来、時には気楽な曲が家から流れてきた。隣の人、親、兄弟そして職場の人達は彼が突然別人のように変わったのを見て驚いた。そして皆は彼の妻にどんな方法を用いてこの “ロバ野郎”を変えたのかを聞いた。張国珍はいつも笑いながら “本人に聞いて下さい、私に方法があれば、もっと早く使います、今まで待てると思いますか?全部、法輪大法と師父のお陰です。”と言った。この一家のあらゆる変化を見た人はみんな法輪大法の威力に敬服した。

 大法が絶望の淵から張国珍を救った。大法が趙華の人生を変えた。大法がこの家庭に暖かさと安らぎを与えた。しかし、思いもよらないことに、大法を勉強し良い人になろうとしていただけの、この家族が迫害され流離してしまった。夫が固く修練したため非合法に長春朝陽溝労働教養所に入れられ、毎日ファシズムのような酷刑を受けている。学校に通っていた子供は叔父さんの家に預けられるしかなかった。今は学校が休みに入って、学生達はみんな親の側に戻って、家族と一緒に楽しんでいる。しかし張国珍の息子は孤児みたいに、冷たい部屋に立って泣きながら:“お父さん、何時帰ってくる?!お母さん、いったいどこに居るの!?……私は貴方たちと合いたい!”と言った。

 誰がこの家庭を壊したのか、誰がこの悲惨な状況を作ったのか?善悪にはすべて報いがあるのだ。江氏集団は既に国外の大法弟子に“群体滅絶罪、酷刑罪と反人類罪”の罪で国際法廷と多国法廷に告訴され、全世界の審判を受けるはずだ。しかも、欲に眼が眩んで良心を失って江氏集団のあとについて大法を迫害した政府官員と警察も漏れなく逃げられない。しばらくすると、それらの人たちは文革中の悪人と同じで、歴史の審判を受けるはずだ。私はこの文章を書いて、彼等を歴史の鑑として、自分の将来のために責任を持ちたい。


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/2/5/66714.html