日本明慧


大慶大法弟子李元広は4年に渡る理不尽な迫害を受け続け、ついにこの世を去った。(写真)

【明慧ネット2004年3月19日】華東師範大学大学院を卒業した李元広は法輪功学習者で、江氏集団から4年余りに渡って気の狂ったような迫害を受け続け、2004年3月4日ついに死亡しました。彼はまだ34歳でした。

李元広の結婚写真 李元広の遺体

李元広を良く知っている人なら、李元広の第2の命は大法によって与えられたことを皆知っています:彼が大学院生の時、彼は深刻な腎臓病を患っていました。その当時彼は余りの苦しさに学業を続ける気力すらありませんでした。しかも彼は何度も生命の危機に陥りました。これを見かねた先生と学友達はそんな彼を助けるつもりで、法輪功ってとても素晴らしいと聞いているけどあなたも試しにやってみたらと進めました。喜んだ彼はそれから法を得て練功を始めました。すると練功を始めて間もなく彼の体は奇跡的に回復しました。そして卒業の時、彼はずば抜けた成績で修士学位を獲得しました。

卒業後、彼は海外留学の機会を放棄して、故郷を支援する建設に自ら希望しました。これによって彼は国が公布した2900元の辺境地区を支援する表彰を授与されました。その後彼は学業を終えて故郷に戻りましたが、地元の人々の熱烈な歓迎を受けました。その時大慶市教育副市長の魏興柱は、自ら彼に会いに行き、彼の帰りに対して高い評価を示しました。そして李元広は大慶教育学院に勤務することになりました。

大法を修練していた彼は至る所で“真、善、忍”の標準に律していました。彼は仕事に勤勉で、能率の向上にも努めました。そしてすべてに正直で、善良だったので、みなに褒められる素晴らしい青年でした。彼が自分の勉強した知識を生かして国家のために尽力している時、江氏政治ごろつき集団が法輪大法に対する残酷な鎮圧を始めました。李元広の故郷を建設したいという夢は徹底的に壊されました。4年あまりに渡る迫害の中で、彼はずっと大慶市の江氏手下の重要な迫害対象の中の一人でした。なぜなら当時彼は大慶市東風新住宅区法輪功指導センターの責任者だったからです。

1999年7月29日、李元広が北京の投書・陳情局から戻ると、彼の身分証は派出所に没収されました。その日から彼は毎日職場でいわゆる“転化資料”を強制的に勉強させられ、しかも莎区公安支局の“尋問”も受けました。最後に彼は地元のメディア上で本心を裏切るような発言を強要されました。

2000年4月3日、李元広は法律に基づいて、法輪功のために国家の投書・陳情局に陳情に行きました。しかし彼は待ち伏せた私服刑事に捕まり強引に身体検査され、殴打された。その後、北京華風ホテルに連行された(大慶駐法輪功学習者“送還”北京センターがここに設けてあった)。2000年4月5日、彼は管轄区域派出所と学院側によって連れ戻されてから15日間莎区の留置所に拘留されました。その間彼は練功を続けたため何度も殴られました。2000年4月20日、彼は莎区留置場でさらに30日間の刑事拘留延期を告げられた。不法拘留期間中、彼は彼本人に告知されないまま職場の党籍から除名され仕事も首になりました。しかも留院査看(学院内において観察すること)2年の処分を受けました。釈放された彼は、もとの職場から引き離され、公務での出張さえ許されませんでした。しかも、コンピューターに触らせずコピー機の使用も許されませんでした。外出時は必ず休暇許可を取らなければならず、彼はまた違う形で自由を剥奪されました。本来1000元を超える彼の給料は400元までカットされました。当時彼の妻は仕事がなく、子供もわずか7ヶ月でした。大慶のような消費物価の高い所で、400元のお金で一家三人の基本生活を維持することはとても無理で、彼らは非常に困難な窮地に至りました。しかし、彼は依然として時間どおりに通勤して、精一杯働きました。

それでも、このような苦難に満ちった暮らしも長くは続きませんでした。2000年7月12日の午後、管轄区域派出所警長の敬愛国と警官夏彦兵などは李元広を学院から派出所に不法に連行しました。警長の孫万庫等8人の警官は鍵開け大王と呼ばれるものを連れてきて、李元広の家に侵入し、じゅうたん式(残らず全てに手を付けること)家宅捜査をしました。最後、悪警は何枚かの手書き経文を“犯罪証拠”として李元広を莎区留置所に閉じ込めて不法拘禁し、9月7日にやっと釈放しました。留置所は人が多過ぎて、彼と拘禁されていた大勢の大法弟子は(伝染性皮膚病)にかかりました。夜間は全身の痒みで寝つくことができず、その苦痛といったら言葉で表現できない程でした。彼は釈放されても、このような苦痛が6ヶ月あまり続きましたが、辛抱してやっと良くなりました。

2001年4月24日、新星派出所所長の尚福臣と政治工作員の賀剣秋は教育学院の党委員会書記の徐鉄民と一緒になって突然不法にも李元広の事務室を捜査しました。この捜査で“証拠”を見つけられなかった彼等は強引にも彼の住宅も家宅捜査しました。彼がこれらは法に反していないかと質問した時、政治工作員の賀剣秋は“おとなしくしろよ。法輪功のお前を殺すのはただの遊びことだ。お前は警官をなんだと思っているのだ?警官はつまりごろつきなのだよ。”と言いました。

その後李元広は強引に派出所に連行されて、めった打ちされました。最後に彼は後で両手に手錠を掛けられ、鉄の椅子に足かせをはめられた状態で警官と保安員等の監視を受けました。夜9時過ぎに彼は薩区留置場に送られました。留置場のもっぱら法輪功を迫害する“特別査問グループ”は、李元広に“尋問記録”に署名させるため、残虐な体刑を加えました。鉄の椅子に縛り付けることはじめとして、眼球弾き、“たばこ吸い”、薬注ぎ込み、鼻腔内のからし粉塗り、“マッサージ”、足蹴り、指踏み、顔面殴打と残虐を極めました。それでも李元広は決して協力せず拒否し続けたので邪悪な公安もついに諦めました。

大慶の大勢の大法弟子は、みなこれよりも更に邪悪で残虐な体刑を受けています。不法迫害に抗議するために李元広は、留置場に送られると絶食を始めました。ところが27日から留置場は毎日彼に野蛮な食の注入を行いました。5月5日、危篤状態になった彼は足かせを付けられたまま市人民病院に送られて緊急措置を受けました。病院は心臓、腎臓の衰えと急性腎臓機能不全であると診断して3本の点滴をさせ、彼をまた留置場に戻しました。6日、彼はまた前日と同じ病院に連れて行かれ緊急措置を受けました。看守は彼が留置場で死亡することを恐れて、派出所、公安支局と学院に連絡を取りました。そして危篤状態の彼に“あなたは家に帰ることができる。”と言いました。それから全ての人が抜け出して、彼一人残されて点滴を打ちました。しばらくして、派出所、支局等から人が来たが、派出所と支局の人は:“重病のために一時出所にさせるが、呼ばれたら直ちに来い。”と言って全員外に出て行きました。それから学院はやっと家族に知らせました。家族が迎えに来た時、臨床の人の話によると、李元広は手錠と足かせを掛けられたままだったそうです。

入院費用が高く、また学院は一元の費用の支払いさえ拒否したため、家族は李元広を家に連れて帰るしか方法がありませんでした。後から学院は病院とぐるになって、李元広が全快して退院したと偽証を作り、迫害の隠蔽(実際彼が退院する時、主治医は医者の職責を履行しなかった。退院証明には主治医をはじめいかなる医者の署名もなかった。これは明らかに理屈に合わないことである。)を企みました。李元広の妻は、やっと勤め先を見つけたが、学院のある幹部がその会社をそそのかし、彼女を解雇させました。李元広の妻は仕方なく、また家計を支えるためにほかの勤め先を探さなければなりませんでした。李元広一家は、すでに窮地に陥って生存するすべさえないにも関わらず、大慶の邪悪な警官は危篤状態の彼を依然として見逃しませんでした。彼の休養期間中に公安はまた労働再教育2年という判決を彼に通知した。これに抗議すると最後には脅迫して2万元のお金をゆすってやっと所外実行という判決に変更しました。それで、李元広は実家に戻されることになりましたが多額の負債を抱えたこの家庭はすでになにも出来ない困難な状態でした。

度重なる残酷な迫害を受けて、李元広は心身共に踏みにじられ、体は回復のしようがありませんでした。2004年3月の初めに、彼が危篤状態になったので一家は迫害の危険を冒して、大慶の家に戻りました。このことをいち早く知った警官は、すぐ家に駆けつけて来ました。3月4日の午前、管轄区域の警官が来て外に出られる状態か否かを尋ねた(なぜなら北京で二つの会議が行われる予定があり、彼らは李元広が陳情に行くことを恐れていた)、すると李元広の母はこの警官を激しく非難した。老人は涙ながらに“私の息子はあなた達に迫害されて身動きさえ出来ないのに何処に行けると言うのか。早く出て行け!”と叫びました。この母の剣幕に警官は返す言葉もなく、こそこそと逃げ出しました。

警官が帰って2時間も経たないうちに、李元広はこの世を去りました。

李元広が亡くなった時、彼の体は骨と皮ばかりに痩せこけ、体重は数十斤(1斤=500㌘)しかありませんでした。壁に掛けられた彼の生前の写真はハンサムで、あか抜けていた。居合わせた人々はこの写真を見て、我慢できず全員号泣しました。国は多くのお金と物を使って優秀な人材を育成しました。ところが江氏集団の残酷な迫害は李元広のような優秀な人材の生命を奪ってしまいました。

江氏集団の4年余りの法輪功に対する気の狂ったような迫害の中で、数多くの李元広のような優秀な人材が圧殺されています。私達はこれを容易に読み取ることができます。“知識を重視して、人材を重んじる、人権を尊重する”などのスローガンで迫害を覆い隠して、不法な集団はこれと相反する悪事を働いているのです。

李元広を迫害した悪人名簿:(区域番号:0459)
董風林:元大慶市莎区公安支局の政治隊長(現在莎区富強派出所に転勤して政治工作員を担当している。事務所6692269、自宅6186809、携帯13845928158)
尚福臣:新星派出所所長(現在会戦派出所所長を担当している。事務所6322826、自宅6686800、携帯13339591777)
賀剣秋:新星派出所政治工作員(現在団結派出所所長を担当している。自宅6361576
携帯13945958138)
孫万庫、敬愛国:新星派出所警長(孫万庫は政治工作員を担当している。自宅6394460、携帯13936706110)
夏彦兵:新星派出所警官
徐鉄民:大慶教育学院の党委員会書記(李元広直接迫害した責任者)
劉景新:大慶教育学院の院長(すでに定年退職した)
劉光偉:大慶教育学院党事務室の主任
元凶:江沢民

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/3/15/69926.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/3/28/46495.html