日本明慧


内に向かって探し悟ること

文/大陸大法弟子

【明慧ネット2004年3月28日】先生は私達に教えられた、問題が起きた時、内に向かって探すのが大法弟子と常人との根本的な違いである。最近、私と多くの同修は内に向かって探すことに対して、認識がはっきりしていないことが分かった。特に表面から見て相手に問題がある時、どのようにして内に探すのかが分からず、或いは根本的に内に向かって探さないで、自覚しないまま相手のことを非難している。これは内に向かって探すことをやり遂げていないのである。この時、私達が依然として内に向かって探すことができて、自分の心がどう動じたか、これでやっと先生の要求された内に向かって探すことが達成される。これはやはり矛盾が出た時の内に向かって探すことで、私はこれがまだはるかに足りないと感じている。私達は常に自分の一念を“濾過”し、どこに法に一致していない思想があるのか、先生は《警告の言葉》で述べられた、「修煉の中で、皆さんは自分の着実な向上によって、内面から巨大で本質的に変化させるのではなく、わたしの力に頼って、外在する強大な要素を頼りにしていますが、これでは永遠にあなたの人間としての本質を佛性に変化させることができません。」
 
もし私達が常に内に向かって探すことができるならば、矛盾が現れることはなく、毎回の矛盾は私達の執着によって現れるのである。特に今は正法時期で、また多くの邪魔の妨害があり、直ちに内に探していない多くの同修は長期にわたり苦しみの中にあり、多くの回復しにくい損失をもたらされる。更に、今正法時期で、多くの同修は“正法時期の大法弟子とは何か”を依然として理解していない。私は正法時期の大法弟子は、まず自分を修煉して、絶えず自分の心性を高め、実は私達個人が心性を高める過程は、自身の体系の衆生が同化する過程であり、衆生を済度する過程であり、同時に正法時期の大法弟子はまたその他の天体の大窮の衆生を救う使命を担っており、真相を伝えることである。一部の同修は法の上から何が正法時期の大法弟子なのかが分からず、ただ過激に真相を伝えて、宣伝ビラを配る、甚だしきに至っては或る人は誰がビラを多く配ったかによって、誰が大法の仕事をより多くしたかにによって、誰が修煉がよくできて、そのため、ただこれらの正法の仕事だけをして、自分を修煉するのも正法の仕事の一つであることを忘れてしまっており、しかも、これは更に重要な一つでもあるのに。私達の修煉は円満成就が第一位であるからである。
 
同修よ!私達は心を静めて先生の法を学び、法理を理解し、仕事をする心でこんなに神聖な事をしてはならない。そうでなければ、どんなに大きくて素晴らしい事をしたにしても、どれ程たくさんの廟を建てたことと、道理は一つであり同じである。私達はいつもしっかりと心に刻んでいる——内に向かって探すのは私達大法弟子の永遠の課題で、ただこのようにして私達はようやく一人の合格した正法時期の大法弟子になることができ、ようやく先生の大きな期待に背くことなく、ようやく私達のするべきことをすべてよく行うことができるのである。私達の偉大な師父のため、私達に大きな期待を託した平凡なあの衆生の為に、“内に向かって探す”ことで、一層自分に厳しく要求し、根気よく続けて、絶えず精進していこう!

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/3/28/71044.html