日本明慧


自我を放下して初めて純正な心で大法の仕事を良く行うことが出来る

 海外大法弟子筆

 【明慧ネット2004年1月26日】今日は師父そして同修達!

 私はこの特別な法会に参加出来て、幸運であると感じています。この機会を喜んで大切にしたく思う一方、私は恥しさでいっぱいです。法会の係りの人が皆に経験を書くよう頼み、それが私の責任感に訴えました。それは修煉者達全体の一部として交流会に貢献する責任感です。ここに居る同修達は長期間に渡って孤独な環境にも負けず、無私の心で黙々と重荷を背負ってきました。明慧ネットの運営がスムーズに行くよう、犠牲になってきました。これらの同修達と比べると、私は自分との間に大きなギャップを感じます。これらの着実に精進している同修達と自分を比べると、私は恥しく思います。そしてこの機会をもってまず私はこれらの同修に高い敬意を表します。

 一瞬のように見えますが、明慧ネットが設立してから五年近くになります。私はこのウエブサイトに、ほんの少しですが継続的に奉仕してきました。それでいて師父が私に与えたものは非常に多く、私には返すことが不可能です。ここで私は明慧ネットの仕事における修煉で認識したことを、いくつか交流したく思います。

 1. 本当に衆生を救う努力をすると、法の力と智慧を持つ

 「現地の邪悪を現地の住民に暴く」という記事に対する師父の意見が掲載された時、大陸の同修達は、その意味の重要性を把握し、現地の人々に邪悪を暴き、真相を伝え始めました。明慧ネットは過去四年以上に渡る迫害事実の資料の内容を、各地区毎に総合整理し、大陸の同修が利用しやすいようにしました。短期間の協調の後、同修達はこの重大なプロジェクトを開始しました。

 坐って、1999年7月20日以来の迫害を暴く記事にじっくりと目を通してみると、私のこの方面の知識と理解が十分というには程遠いことを発見し、驚きました。過去において私はいつも、「迫害事実」の欄をさっと目を通すだけにする為の言い訳を、様々に作り上げていました。時々私は真相を伝える目的の為に典型的な迫害例をすばやく読むだけで、同修の経験や認識の欄に注意を集中していました。同時に私は他の記事も自分の好みに応じて読んでいました。この大きな漏れを発見した後、この地区毎に全面的に迫害事実を整理する仕事が私に与えられたのは、偶然ではないと分かりました。私はこの方面で多くの漏れがあり、今この仕事を通じてそれを訂正することが出来るのでした。しかしながら、実際に仕事を始めてみると、私の修煉の要素の局限的認識により、もっと広い視野からこの迫害の洪大でそれでいて深い意味を、正しく扱うことが出来ないと分かり始めました。

 迫害の詳細を示す資料を見ると、地域によっては少なくとも一千の記事があることに気づきました。それは実に怯ませられる仕事でした。過去四年の大法と大法弟子に対する迫害の全体的情況を反応させる為には、どのように記事を分類するか、いかにして邪悪を暴露し、如何にして大法の美と恩恵を理解しやすいようにするか、如何にして世間の読者のこれらの記事の受け入れ能力に対する障碍を考慮するか、考えるのは難しいことでした。効果的な資料にする為には、これら全てを考慮する必要がありました。私は長編の総合的な報道の経験がなかったので、どこから始めればよいのか分かりませんでした。

 しかしながら、迫害の真相の記事を一つ一つ読んでいる中に、私は大陸の弟子達が法を正す時期の最後の時に、人々を救う為に真相資料を受取るのを待っていることを知り、そして師父の真相を伝え、邪悪を暴き衆生を救うようにという指示を思い出し、この仕事の重要性と緊急性がはっきりと分かりました。大陸の弟子達の残酷な迫害中の破壊されることのない正念に加え、次々と続く血生臭い事件、次々と続く迫害例が、私を揺り動かし、私の修煉を通してまだ放下出来ていない執着を流し去りました。自分の空間の堕落した物質が減少し、正のエネルギー場が強まって行きました。自分の体験から私は真実の威力を感じ、師父の真相を伝えるようにという教えをもっと深く認識しました。それと同時に私の衆生を救う為に機を掴みたいという望みが、それまでになく強まりました。

 私の思いが正された時、大法が必要な智慧を与えてくれました。私の困惑とその他全ての私がはまり込んだ困難が消え去りました。それらは内面の平静と決意に置き変りました。

 この体験で私は迫害の真相を全面的に深く諒解することになり、明慧ネットの記事と、それが真相を伝え、衆生を救い、邪悪を消去し、法を正す時期の私達の修煉を全うすることにおいて果たす、大きな役割に感謝することを学びました。

 2. 大法の仕事中に起きる全ては、その中に修煉の要素を含む

 大量の迫害資料を読み整理する過程で、私はしばしば大陸の同修達が残酷な邪悪の迫害中に生死を放下し、自分の血と生命をもって法を証明しようとする悲壮なそれでいて見事な物語に感動させられました。一方私は彼らと私の間の大きなギャップに気づき、自分の内に残る人間の執着をはっきりと見たのです。大法の仕事中に起きる全ては、修煉の要素を持つことに、私は気づきました。修煉者としての注意を保ち機会を掴むことが出来る限り、私達はこれらの仕事に関係する中で、自分達を向上させることが出来るのです。

 例を上げると、山東省烟台の大法弟子王と彼女の八ヶ月の息子の迫害致死例を整理している時、原稿は、「王、女、27才と息子孟昊八ヶ月未満、山東省烟台栖霞寺口鎮大法弟子」となっていました。これを読んだ後思いました: この幼児は母親に連れられて北京へ行き、殺害された、もしも彼と母親が山東省烟台の弟子であったと言うと、常人の読者にはおかしく聞こえるかもしれない。それで私はその文章を「王、女、27、山東省烟台の大法弟子と息子孟昊八ヶ月未満」と、深く考えもせずに変えました。私は単に孟昊を大法弟子の枠からはずしたのでした。

 後になって、整理された資料が完璧で重要な詳細の抜け落ちがない事を確認する為に、私はこの迫害例に関する原稿を全部読み直しました。そこには、一時王と彼女の息子と共に監禁されたことのある大法弟子によって、書かれた記事がありました。それは幼い孟昊が監禁されている間、泣かず、音もたてず、母親の膝に横たわっていたことが、書かれていました。その時車中の人達は、幼児が乗っていることに気づかなかったようでした。その夜、孟昊が空腹からついに泣いた時、その弟子は孟昊が七ヶ月を過ぎたばかりであることを、彼の祖母から聞きました。「何て幼い!」と彼女が感慨深げに言うと、その子の祖母は言いました、「けれど、彼も大法弟子ですよ!」 これを聞いて私の心は揺れ、不覚にも涙が頬を流れました。

 この「けれど、彼も大法弟子ですよ!」という言葉は、私が如何に常人のような考え方をし、如何に法を正すことを常人の観念で判断していたかを、悟らせたのでした。師父は、この世の人間の大多数は法を得る為に、高い次元から下りて来た人達であることを教えました。だから、この前例のない法を正す時期に大法弟子の家族に生まれ、大法と縁があり、大法の為に来た可能性があります。この大法に対する邪悪な迫害において、この生命も又迫害を受け、彼なりに大法を証明したのです。幼い孟昊は大法を保護する為に、北京へ五度母親に同伴しました、三度は母親のお腹の中で、二度は母親に抱かれて。最後には彼と母親は両方共拷問により死亡しました。彼の人生はほんの短いものでしたが、彼はそれでも大法弟子でした。だから、栄光を与えられる資格があります。これを法の角度から把握した後、私は涙を浮かべてその文章を元に戻しました。

 この事は私に、真相を暴く資料は法上厳粛であり、その厳粛性は邪悪を暴き衆生を救う使命だけに留まらず、その重要性は未来の為の記録を残すことも含む、ということに気づかせました。それと同時に真相を暴く資料の制作過程で、大法弟子の正念を保つ重要性を認識しました。正念をもって物事を見ることが出来れば、常人の観念に陥ったり、操られたりすることはありません。この過程は又、法を証す為に全てを捨てた大陸の弟子と私の間の、巨大なギャップをも私に見せました。真相資料制作過程で、私は魂が揺すぶられる思いがしました。各過程が完成する毎に、私は堕落した要素を消去している、良い気分を味わいました。

 3. 自我への執着を放下して初めて、純正な心で大法の仕事を良く行うことが出来る

 中国大陸向けの真相資料は、短く、それでいてあらゆる角度から多くの題材を含むことが要求されます。更に大陸の読者の執着や障碍、真相受け入れ能力等を考慮する必要があります。だから望み通りの資料をデザインするのは、実際かなり難しいことでした。又、資料選択収集、編集、レイアウト等の過程で、正念と高い基準を保つことも要求されました。更に、読者の需要をよく理解し、法を正すことへの理解も重要でした。

 最初私は自分の経歴から、真相資料を制作することには何も問題がないだろうと、思っていました。しかしながら、一時期が過ぎた時、チームメンバーの一人の同修がもう一人を通して批判して来ました。資料選択収集、編集において、私がよく考えない、読者のことを考慮していない、だからもっと改良する必要があると言うのでした。その批判を耳にした時には、私は表面では、それらの事をもっと真剣に考えると、言いましたが、内心はその事を放下出来ませんでした。私は我慢出来ず、「私はやれるだけの事をやったのだ。気に入らなければ、何故直接言って来ないのか。実際どちらにしろ、時々私が編集した後、あなたたちが必要のない訂正を加えるのだ」という思いが内心を駆け巡りました。チームの全ての困難を私に押し付けたその同修を、非難したくさえなりました。私は師父の教えである、修煉者は内を見る、ということをすっかり忘れていました。その時は私は諦めることが出来ず、文句が積もりました。私はくどいイーメールをその同修に送りました。表面では自分の理解を交流しているようでしたが、実際はうっぷんを晴らし、文句を言っているのでした。

 私のイーメールを読んで、その同修は私に電話して来、自分の考えを率直に話しました。彼女は私を責めることなく、私の問題を誠実に指摘しました。衆生の需要という角度から真相資料を制作することに対して、考慮がなされていないということでした。電話を置いた後私は、この同修が私の欠点に注目しているのではなく、真に衆生を救う角度から心配していることが感じられました。私は次第に冷静になり、同修の法に基づく高潔な行動が私自身をよく見るようにし、私達の修煉における相違を見せました。内側の壁は消え、私は静かな心で内面を見始めました。

 私は自分に問いました、「真相資料制作の全過程で、私は衆生のことを想っていただろうか? 想っていなかったのなら、どのような執着と人間の心が私の仕事を邪魔していたのだろうか?」 私は自分の問題を見つけることが出来ました。大法の仕事に私は個人的なものを混ぜていました。問題に面した時、私は自分の興味から、私が解決したいもの、私が良いと想ったものの角度から見ており、時々私の見栄と競争心への執着をさえ混ぜていたのです。衆生の需要という角度から物事を考えることは、決してしませんでした。ついに私は自分の中に隠れた大きな自我をはっきりと見るに到りました。

 翌日、必要のない訂正を加えることで私が文句を言った同修から、返信が来ました。彼女は言いました、「どうであろうと、この件に固執しないで下さい。それを重荷にしてはいけません。その事は投げ捨てて前進し続けて下さい。もしも私に怒鳴ることで気が休まるなら、そうして下さい。自分という角度から考える事を控えるなら、そう悲しいことではありません」。彼女のイーメールを読んで、私の顔は涙でびしょ濡れになりました。それは私が道理をわきまえず、不正に彼女を咎めたにもかかわらず、彼女は私を批判したり、自分を防衛しようとせず、代りに私のことを純粋に心配し、修煉者の立場から私を助けようと試みたからです。自分の自己主義な行為を責め、同修を傷付けたことを悔やみ、善良な同修の無私の寛容さを感じるに到り、私は更に奥深くから泣きました。その瞬間、私は巨大なエネルギーの流れを感じ、私の空間の汚れた物が全部流れ去りました。

 この体験を通して私は、大法の仕事を良く行うことは、常人の技術や能力を使うことではなく、純正な心態を保持しながら、自我を放下し、私心を捨て、修煉において精進し続けることであると認識するに到ったのです。そうして初めて大法の仕事を良く行うことが出来るのです。

 大法のウエブサイトの仕事で修煉出来るのは好運です。又法を正す時期に師父と共に居られるのは幸なことです。大法は私達に力量と智慧を与えました。この無上の栄光に満ちた法を正す時期に、修煉で精進することによってのみ、私達は師父の慈悲による済度と、衆生を救う歴史的使命に値するのです。同修の言った次の言葉が私の心を深く動かしました。「私の生命は法を正す為に存在します。ある日師父に会えるなら、私は法を正す路でベストを尽しました、と悔いなく言えるでしょう」。

 最後に師父の最新の経文を共に学びましょう:

 世の大きな変遷も一瞬のことも、すべて時間がもたらしたものである、
 法を正すことは新しい紀元を創り出している;
 悠々たる歳月の栄光と苦しみは、
 全てこの時に洪大な願いを果たすためである。
 
 衆生のために、大法を証明するために、神への路において精進しましょう! 未来の圓容は皆さんの栄光と共に存在するのです! (04年元旦 師父から大法弟子へのご挨拶)

 師父有難う、皆さん有難う!

(2004年1月19日交流会の発言)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/1/26/65725.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/3/31/46598.html