日本明慧


真修、煉功堅持と体験記事の読後感

 大陸大法弟子筆

 【明慧ネット2004年4月1日】
 1.真修

 私が修煉を始めたばかりの時、一同修が、師父が「真修」ということを特に強調していると、心から言ってくれた。後になって私は、「真修」という言葉の大切さを少しずつ悟った。真の修煉をすることは、簡単ではない。実際それは時に、非常に難しい。この種の困難は、普通の人に耐えられるものではない。だから誰でもが真の修煉をするのは不可能であり、修煉を遅かれ早かれ止めてしまう人が居るのは、定められている。殺生について師父は言った、

 わたしは煉功者に法を説いているのです。常人にどう暮せばよいのかをいい加減に教えているわけではありません。具体的な問題についてどうすればよいかは、大法に照らして判断し、良いと思うようにすればよいのです。常人はやりたいようにやっていますが、それは常人のことです。誰もが真に修煉するというのは不可能です。しかし煉功者に対しては、高い基準で律するべきなので、これは煉功者に出された条件なのです。(転法輪)

 私が思うには、「真修」とはより高い基準を要求することを意味する。それは非常に難しく、非常に厳粛なことであるので、修煉において、堅実で固い決心を持つことが重要である。師父は弟子に法を説いたが、真の修煉者だけが不断の向上をする中で、天機を悟ることが出来るのである。

 私は一度だいたい勘定してみて、転法輪の第一講において、「真正」という言葉が三十回以上も使われていることを発見して、驚いた。慈悲深い師父は、どれほどこの言葉に私達が注意することを望んでいるのだろうか? 私は同修達に、静かなはっきりした心で法を学ぶように言う。そうすることで、本当に法理を悟ることが出来る。そうすれば、私達は大法の修煉者に対する要求を、理性的に理解することが出来、修煉者としてやるべき事とやるべきでない事とが分かり、一思一念を自己に厳しく要求出来る。実際真の修煉者は、「頭上三尺に神あり」を信じる。誰も見ている人がなくても、彼は自分の思想や行為を、法理に基づき自制する。そして思想を正し、心性を高める為に厳格に内面を見る。私達は修煉の路を一歩一歩着実に歩かなければならない。近道はない。

 謙虚、誠実、善良は、人類の尊敬すべき品格である。それらは又、修煉者が持つ素質でもある。真に修煉する者の思想の境界は常に向上し、昇華する。常人でさえ道徳を重んじる人は、欠点を指摘されれば喜んで聞き、善をもって人に接し、批判を謙虚に受け入れる。修煉者が問題に出逢った時に、責任を避け、内面を見ることを拒み、内面を見て自分の間違いを認めることが出来ないなら、自分が真の修煉者であるかどうか考え直すべきである。私達は法を簡単に得たからと言って、簡単に失うべきでない。自分のやりたい放題にやり、だらけてはいけない。何千年も来ることのなかったこの機会を大切にし、真に修煉する為に時間を最大に生かし、史前の重大な誓いを果たそう。

 2.煉功を堅持する

 私は数年修煉して来たが、煉功に関してはかなり怠けて来た。煉功はただ修煉の補助であるという、狭い観念へ執着していた時、自分の怠慢を正当化する良い理由と言い訳を見つけさえした。ある日私は一つの体験記事を読んだ、「修煉者は法を学び煉功する必要がある。丁度食物と水が必要であるのと似ている」。私は突然自分が良く行わなかったことに気づいた。実は全ては法の中にあるのだったが、私の強い観念が邪魔をしていた。

 法輪大法も「生命双修」の功法なので、煉功するのに動作が必要です。動作は、一つは功能を加持する働きをもちます。加持とは何でしょうか? それは強い功力で功能を強化して、ますます強くさせることです。もう一つは、身体の中にたくさんの生命体を演化させなければならないことです。高い次元の修煉になりますと、道家では「元嬰出世」を重んじ、佛家では「金剛不壊の体」を重んじますが、このほかに、さまざまな術類のものも演化させなければなりません。これらのものはすべて手法を通じて煉りますが、動作はそれらを煉るためのものです。完全な生命双修の功法には、「修」も必要とし、「煉」も必要とします。(転法輪)

 このような良い修煉法を得たにもかかわらず、煉功を堅持せず、私は自分に対し、無責任であった。

 私は時間を按配し直し、僅かな時間も煉功に利用した。夜、どうしても眠い時は短い睡眠を取り、目が覚めれば法の勉強と煉功に時間をとった。一年間それを続け、私は自分に明らかな変化を経験した。顔は健康で輝き、身体は強健で精力的になった。以前私の心は乱れており、安らかになれなかった。現在では頭がはっきりしており、本当に静かな快さを経験した。又法の勉強をする時の効果もずっと良くなった。この経験から私が学んだのは、観念を放下して初めて本当に法を理解出来るということである。執着をもったままでは、無知の中に居続ける。又同修間の交流が非常に重要であることも認識するに到った。時々私達は自分が悟った理に何年間もはまり込んだままで、同修の一言に突然悟ることがある。交流する多くのことは同修達の経験による教訓である。私達はそれらから恩恵を受け、不必要な損失を避けることが出来る。

 3.同修の体験記事の読後感

 最近二つの記事、「金佛」と「鉄茄子を焼く」を読んだ後、深く考えさせられた。修煉者は誰であろうと正しい目的を持たないなら、成功しないということに気づいた。これら両方の主人公達は自分は修煉していると思っていたが、私は彼らは真の修煉をしていなかったと思う。彼らは私心を捨てず着実な修煉をしておらず、善に欠けていた。更に彼らの圓満成就を求める心は強い執着であった。修着を持って修煉することは間違いである。

 修煉とは表面的なものを見ず、心のみを見ることである。形式を重んじず、心を重んじる。それは決して形式に変ってはいけないのである。法の勉強をして、煉功して、その他のことをしたからと言って、佛があなたのことを面倒見てくれ、正果を与えてくれると思ってはいけ ない。佛はあなたに崇拝してくれと頼んだわけではない。あなたが苦しんだ苦難はあなたの業を返済するためであった。佛は無条件で静かにあなたを助け、保護してくれる。佛が求めるものはあなたの心のなかの善だけである。修煉者の境界は、実際の修煉中徐々に精進し昇華することから来る。圓満成就は崇拝や追求から来るのでなく、修煉から来る。私達は純正な心態で物事を行わなければならないということを、皆に覚えておいて欲しい。私達は無条件で、心からの慈悲をもって衆生を救うことが要求される。「追求せず、自然に得る」ということを覚えていて欲しい。

 「金佛」の中の屠殺やは、殺生をした。「鉄茄子を焼く」の中の強盗は多くの天理に背くことを行った。これらは善悪の区別が出来ない情況下での常人の行いであった。佛法を聞き、修煉を始めた後は、善の為に悪を捨て、完全に改めた。師父は言った、「人の佛性は善であり、慈悲として現れ、物事をする時の他人への配慮、苦痛に対する忍耐のことです。」(佛性と魔性 《精進要旨》) 屠殺やと強盗は自分が困難な情況下にありながら、文句無しに与えることが出来た。これは真の修煉者の境界の体現である。佛の慈悲は計り知れず、過去の過ちは一切顧ず、基準にさえ到達すれば正果が得られるのである。丁度常人が言うように、「生命にしがみつく者は生命を失い、人の為に自分の生命を犠牲にする者は、永遠の生命を得る」。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/4/1/71042.html