日本明慧


先生を信じ大法を信じることが、大法修煉者にとっての基本である

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年4月9日】我々の地区の一部の学習者にある現象が見られた。大法の本を読み、明慧の資料も読み、煉功もしていて、先生の話も理解し、自分に執着心があることも分かっているが、しかし、肝心な時に正念が出ない。普段はマージャンもやり、消業のときは病気とみなして対処し、いつも自分が修煉者であるという自覚がない。

 先生はいつも“法を勉強する”ことを強調しておられる。なぜなら、“法は全ての執着、全ての邪悪、全ての虚言を破ることができ、法は正念を固めることができます。”(「妨害を排除せよ」)なぜ肝心な時に正念が出ないのか、最も根本的なところは、先生を信じること、大法に対して信じることが足りないからである。

 一部の学習者は自分に恐れる心があり、いろいろな執着や生まれてからできた観念を持っているが、それらが自分をきつく縛っており、自分は突破したいが、なかなか突破できない。問題がある度に、いろいろな執着心が入り混じり、恐れる心が非常に強い、情に脆いなどなど、先生の言葉に疑問をもち、“先生が言っておられることは本当か?”と思い始め、そういう状態で正念が出るだろうか?堅く信じていなければ、誤った道に入ってしまう。例えば、誤って悟ったり、転化されたり、公安に情報を提供したり(スパイに相当)、恐れる心があって出られないなどである。堅く信じていなければ、仏教や他の宗教を信じることがある。その中にはかつては大法を勉強し、先生の慈悲の偉大さを実感した人もおり、また迫害が激しい時に歩き出して大法を証明した人もいる。しかし、先生や大法を堅く信じなかったせいで、今は別の道を歩んでしまったのは、あまりにも惜しい。千万年待っていたのにこのように壊されていいのか?従って、先生を堅く信じていなかったことで受けた損害が一番大きい。

 2千年前に、イエスが下りて人を済度した時、ユダに裏切られ十字架に磔にされたが、イエスは3日後復活すると言った。彼の弟子の或る人は、イエスは神で復活してくる、或る人はイエスが神ならなぜ十字架に架けられたのかと疑った。3日後、イエスが復活した時、人々は驚いた、もちろん堅く信じている弟子はその通りになり、信じていなかった弟子はそうではなかった。これこそいい例ではなかろうか?私の悟りではこれは旧勢力が今日の修煉者に教訓として残した先例であろう。

 我々は迷いの中で修煉する、先生を信じ、先生の言われた通りに行ってこそ、いろいろの難関を超えられる。ある同修が病業上に非常に大きな魔難があり、それは旧勢力の黒い手が加害した結果であり、もし先生を信じて、正念が強ければ超えることができる。しかし、彼女にはいつも”病気”という一念が残っており、その結果黒い手に隙を突かれた。この問題において、どうやって先生を信じるのか?先生は入門して大法を学ぶ時既に病気の根を別空間から取り除き、ただほんの少しの病業の場を残し、各階層において弟子の心性を向上させるための消業現象として存在し、それを病気とみなすと、どうやって修煉するのか?これは病気を求めることではないか?この点において自分を常人の次元に置いた事になり、それでは病気にまた入り込まれてしまう。これは先生が何回も言われた法である。

 大法弟子はある状況にも注意する必要がある。ある大法弟子はいろいろな”痕跡”から邪悪が自分に迫害(洗脳班や看守所に入れられるなど)を加えていると思い込み、この状況で、学法を強化し、もっとよく正念を発して旧勢力の按排を排除するのではなく、頭の中で自分がいかに迫害を受けるかの物語を考えてしまう。例えば“また自分を探すだろう”とか“看守所は自分を見逃さないだろう”とか、これは求めるのではないのか?これは病気消業を病気とみなすのと同じではないか?これは黒い手に隙を与えてしまうのではないか?

 物語を考えてしまっても大丈夫、急いでこれを解体させよう。もし我々はこの時先生の話を思い出して、例えば先生が我々に”私が李洪志の弟子であり、他の按配は要らない、認めないと思えば、それらは恐れ怯えて手を下すことはできず、何でも解決することができます。”(「2003年旧正月十五日米国西部法会での法の解説」)と教えられた。正念が出れば、邪悪が隙を突けなくなり、それはつまり、先生を信じ、大法を信じてこそ、正念が起きる。私の体験では、普段どんなことに出会ったとしても、まず大法の基点に立ち、先生がどう教えられたのか、先生の言われた通りにやれば、これは正念であり、どんな問題でも解決できる。

 我々は大法弟子で、この大法を証明する大切な時、自分が先生と大法を信じる程度を振返って見るべきである。百パーセント信じてからはじめて大法をよく勉強でき、強大な正念ができ、いかなる難関をも突破できる。最大の能力と知恵をもって大法を証明できる。先生は大法弟子が歩く道は狭いと教えられたが、先生を信じ、大法を堅く信じて、どんなことも先生の言われた通りやれば、我々は帰りの路上にある。

 個人的な体験なので、不足があれば同修の指摘をお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/4/9/71947.html