日本明慧


字を直すことから修煉を説く

 文/一言

 【明慧ネット2004年4月24日】師父の《修改》が発表されたときはちょうど一番忙しい時期に当たった。急いで一部を直したが、間違えることを恐れプレッシャーが大きかった。これだけ直すところがあるから、まとまった時間がどこにあるのか? 大事な大法のこと、それにそのための法の勉強や煉功を欠かせないし、時間とおりにできるように、うまくできるようにしないと……2週間があっという間に過ぎ、字を直すのはあまり進まなかった。これは師父や法を正すことに直接相関している大きなことであり、われわれ大法学習者が最後の過程中の特別なことなので、引きずってもいけないし、しかしたっぷりの時間もない。どうしよう?

 ある日、修煉者の出会うあらゆることが修煉であり、常に修煉者の態度を保つべき、字を直すことを仕事や任務として完成してはいけないと悟った。だから、翌日の朝早くから起き、前日処理し切れなかった大法のことを終わらせてから法の勉強を始めた。勉強しながら、直すべき字があるとナイフで擦り落とし(髪質が丈夫なので、ナイフで直す方法が丁重かつ伝統的であると考えた)、そして手で正しい字を書いた。忙しいからこそ、法を勉強する時間が余計に大事だと思い、勉強の最中も深い静けさや充実感を——法の勉強がすばらしいと感じた。一講を勉強し終わってから、時計を見ると全世界で一緒に正念を発する15分を除いて、法の勉強と字を直すことで一時間しかかからなかった。心の中はさらに落ち着くことができた。

 そのことから、仕事の忙しい人は何かをするときに習慣や観念が付きやすい。しかし、それらの観念も最終的に放棄すべきものである。人間のやり方がどんなに効率のよいものでも、いくら実証されていたとしても、所詮人間のものであり、修煉の中身と比べ物にもならないのだ。たとえ、どれだけの大法の仕事をしたとしても、その仕事がどんなに忙しいとしても、仕事は修煉に置き換えることができない。あらゆることの中で自分を修煉、浄化させることができると、どんなことに遭遇しても修煉者の心を保つことができ、多くの常人から見て、解決しにくいことが求めることなく解決できるようになる。師父が《無阻》の中で指摘しているように「修煉の道は異なり、すべては大法の中にある。あらゆることに執着せず、足元の道は自然と開いてゆく」。

 中国大陸の学習者の文章を思い出すと、その中で偽経文への排斥やスパイへの注意と呼びかけが多くあった。これらの注意や呼びかけは勉強がまだ深くなく執着の重い学習者にとっては必要であるが、しかし、このような外在的な呼びかけは明らかに一時的なものに過ぎない。根本的に問題を解決するためには、そのような事情が発生した地区のみんながもっと法の勉強を重視する必要がある。もし、本当に法の上で法を認識でき、一人一人が自分の邪悪に利用される執着を探し出せば(個人経歴や経験で法を正すことと修煉を見るのではなく)、師父の言った通りになると思う。「落ち着いて執着したことを考え、人の心を放棄すれば悪が自ら敗れてゆく」(《洪吟.二》“別哀”)偽経文やスパイの出現は当事の地区または環境がみんなの修煉の中で長期にわたり取り除かれなかった執着や手落ちによるものである。通常でない原因は通常でない考え方や方法でしか徹底的に解決できないものである。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/4/24/73081.html