日本明慧


《法を暗記する物語》を読んでから

 文/文華

 【明慧ネット2004年5月12日のニュース】2月8日の明慧ネットで《法を暗記する物語》を読んだ際、涙が溢れてきました。法に溶け込んだ喜びに深く感動し、自らも法を暗記しようと思いました。いかなる生命も生命を作り出したものを好きになると思います。先日、あるキリスト教信者と法理について話し合うことがあったのですが、その理由が分かりました。その時、彼女を啓発しようと思っていたのですが、彼女は私の質問に答えながら、すぐ《聖書》の中にある質問に対応出きる解答のページを開きました。それを見て私は心から恥ずかしく思いました。自分は《転法輪》を暗記することが出来ていませんでした。

 《法を暗記する物語》の中にある「もし正法に終わりがあるなら、修煉にも終わりがあり、そして学法の時間にも終わりがあるのではないでしょうか? 一日学ぶと一日少なくなるのではないでしょうか? 中には気力と心を無駄なところに使っている学習者がいるのを見るに付け、本当に心が痛くなります。私たちは何をしにここに来ているのか、何を最も大切にするべきなのか、何が生命の最も根本的な幸せであるかに対して、繰り返し考え、はっきりさせるべきだと思います」を読むに付け、師父による案配であると感じ、法を暗記しようと決意しました。

 暗記を始めると、すぐ山ほど多い難が来る感じがしました。数年間法を学び、《転法輪》を読んだ数も数え切れませんが、今になっても読んだ文字がすぐ体から消えて、まるで底なしの穴に落ちたように、いつも、憶え切れない感じでした。以前はこのような感じは、大法は限りなく寛大であるからだと理解していました。法の暗記を初めてからも同じ感じであり、覚えきれず、毎回繰り返し読んでは、短い一段を10数回読んでも印象は残らず、苦難に満ちた日々でした。

 これは記憶力の問題ではなく、修煉の問題であり、乗り越えなければならない一つの難であると思いました。また、個人修煉の中で、自分を悩ませている問題があったのですが、夢の中での自分は、修煉者として処世をしないことにあります。起きているときの自分と夢の中の自分は、全く違う二人であるという感じがし、どちらが本当の自分であるのかと。しかし、夢の中でこそ、よく修煉出来ているかどうかを見分けることが出来るのではないかと思います。やはり夢の中の私こそ本当の自分であると思います。心を静めて考えてみると、起きている時は多くの事をやり、多くの問題を考えていますが、それは修煉者としてやるべき、考えるべきではないかもしれません。多くのことは後になってやっと自分が、間違っていることに気が付きますが、最初の一念が正しくないことが多いのです。

 法をよく学んでいない、これが法の暗記が出来ない根本的な原因であると思います。これには近道は無く、努力して暗記を続けるしかないと思いました。このような状況の中、何とか一通りは終え、繰り返し暗記を続けています。法を暗記する過程で、本当に自分の心性は高まり、記憶の中における法の痕跡が深くなり、彫刻刀で石板の上に篆刻をするように、継続していけば、いつか必ず暗記が出来ると思っています。また、執着心を取り除いていけば、憶え易くなると思っています。

 自分が修煉者であることをいつも忘れるという短所を無くすために、法を暗記すると同時に、「自分は“真・善・忍”を修めている。大法弟子である」と主意識を強くするように、念ずるようにしました。自転車に乗るときも職場の休憩中でも、自分に言い聞かせました。はじめて念じる時には言いにくい所がありましたが、繰り返し強化し、時間の経過によって徐々に身体に溶け込み、問題に遭ったときには、先ず自分が修煉者であるということを認識するようになりました。

 工夫しながら法を暗記する過程は、向上を与えてくれるものですから、試みることが出来る人は試してほしいと思います。法を暗記することで、より説法の内涵を深く理解出来ると思います。以前は、多くの法理が浅い認識で過ぎましたが、法の暗記をはじめてからというもの、深い内涵が語るようになると共に、修煉に対しての指導作用もより明確になると思います。例えば、毎朝座禅を組む時、いつも頭の中では、その日の仕事のことで、落ち着くことが出来ませんでしたが、「鶏の卵の殻の中に座っているように素晴らしくて、とても心地よい感じ」というころまで暗記した後は、この段の法を思い出すことによって、その状態に入り易くなりました。

 前回のベルリン法会で、あるイスラエルの学習者と一緒に《転法輪》の第9講を読んでいる時に、彼女は読みながら涙を流しました。私は師父の他の経文を読む時は、彼女のように涙を流したことがありますが、《転法輪》を読む時には有りませんでした。今回の法を暗記する過程で、ある日繰り返し読んでいるうちに、突然師父の慈悲を感じて、涙がとまらなくなりました。本当に師父の存在無ければ、私たちの全てがなく、大法がなければ今の全てもありえません。私たちの新しい生命は大法に育てられていますし、大法をしっかりと学ばなければならないでしょう。 

 大法は一つの橋のように、古い宇宙から新しい宇宙に入る唯一の通路であり、大法を通ってこそ、対岸へと渡たることが出来るものと思います。身体の全てのミクロの構成は、法を通して不壊の体へと変化し、毎日の学法は食糧と空気のようになくてはならないものでしょう。徐々にではありますが、法を読む楽しさというものを体験しました。

 法の暗記を通して体験したことは、この本は「活きている」おり、この一部を暗記する過程で、生活の中での案配があり、理解の程度を試されることがあると思います。私は何回も不合格になりました。例えば“修口”の部分を暗記している4月25日、地方へ行き活動に参加する予定でした。車中におけるある学習者の発言に対して、間違っていると感じ、つい刺々しい言葉で言い返してしまいました。運転手は道に迷ってしまっていたのですが、私は気付かずに、続けて言いました。私の話が終わると同時に、車は煙を出し、ハンドルは故障し運転出来なくなりました。私は呆気にとられて座っていました。これまで自分の言葉が、こんなに大きな結末を招くとは思いもしませんでしたし、このような「善悪がたちどころに報われる」ことは、今まで体験したこともありませんでした。

 もう一つの体験は、法を学ぶことは時間に関係なく、肝心なことは学法時の心理状態ということです。大法の本を師父の法身のように、尊敬の念を持って読むと効果があると感じます。ただ任務を完成するように読むのであれば、学んでも学ばないのに等しいと思います。

 以上個人の体験を述べさせて頂きました。より多くの学習者の方々が時間の逼迫というものを認識され、大法の弟子としての幸福を体験され、法を学ぶ楽しみを感じてほしいと願っております。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/5/12/74440.html