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何度も理不尽に逮捕され 黄州市の女性喩福祥氏は冤罪が晴れないまま世を去った(二)

【明慧ネット2004年5月25日】

 けんかをやめようと勧めたため監獄に入れられた 

 2003年7月、喩福祥氏は宝塔中学校の前で革靴を拭いているところ、数人の学生が集団でけんかをし、喩福祥氏は好意的に喧嘩をやめようと勧めた。110の警官が来た後、騒動を起こした者を捕まえず、かえって喩福祥氏を黄州第二留置場に入れ、15日間拘禁した。 

 “容疑”は警官が逮捕する証拠に使われる

 2003年10月、ある法輪功学習者は"法輪大法は素晴らしい"という大きなシールを公安局の一科に張り付けた。警官は喩福祥氏が貼ったと決め付け、これを根拠とし、不法に喩福祥氏の家に来て、強行して喩福祥氏を第二留置場に連行した。このように理由が不明のまま、また不法に拘禁された。警官は自分ながら道理に背いていると分かり、8日後やっと釈放した。ある日、公安部門の幹部と警官は白日の下何のいわれもなく喩福祥氏を連行しようとしたが、近くの多くの住民はみな出てきて正義を守り、次から次へと警官の暴行を非難した:“彼女は善良でおとなしい人で、自分の状況が苦しいにもかかわらず、よく他人を助けたりするし、何を基準に逮捕するのですか?”凶悪な警官は問いただされても答えられず、周りの民衆が多いのを見て、しかたなく帰っていった。“人民の警官”はこんなに理不尽に何度も喩福祥氏を迫害し、彼女の体に極めて大きな損害を受けさせただけではなく、精神的にも大きなショックを受けさせた。食の腹がふくれない日々で、びくびくしてまたいつか理由もなしに逮捕されると心配していた。 

 警官ははばかりなく法輪功学習者を逮捕している 

 2004年3月14日ごろ、国安の警官がはばかりなく法輪功学習者を逮捕するに際して、法輪功学習者の張道和氏夫婦、呂利安氏、余金明氏、王鋒氏、範小平氏、申偉氏などが連行された。1人の知人は喩福祥氏に、「誰か見慣れない人があなたの行方を探しに来たことがある、危ないのでできるだけ避けた方がよい」と話した。また法輪功学習者の王鋒氏は白日の下十数人の雲をつくような大男に強行に連行されたのを聞いて、これまで数回にわたって逮捕され殴打され不法に拘禁された痛ましい経歴により、彼女はすごく恐れて、国安の悪人に連行されないため、すぐ他の場所で1、2日間避けた後、仕方なく新しい家を借り、しかも大家にいかなる人に自分がここで住んでいることを伝えないように何度も言いつけた。そのほか手元にただの30元のお金を家政センター(家政サービスを紹介する)に払い、家事の仕事を紹介してもらい、あるいは家政婦になるようにした。その時の彼女は自分が革靴を拭く時また連行されることをいかに心配したのが分かったであろう。しかしその後の一時期、生きのびるため、彼女は仕方なくびくびくしながら革靴を拭いていた。しかし連行されるのを心配しているので、よく場所を変えた。

 迫害が喩福祥氏に加えた圧力 

 2004年5月6日、喩福祥氏は警官がまた40人の法輪功学習者を逮捕し、湖北省の洗脳クラスか沙洋労働教養所に入れ、強制的に思想転化を行い、法輪功の修煉を放棄しないと労働教養に処される計画があると聞き、またアルミニウム工場の学習者申偉氏が仕事場で国安の悪人に連行され沙洋労働教養所に入れられ今尚釈放されていないと聞いた。喩福祥氏は再び連行されるのをすごく恐れて、家に帰った後、部屋のドアをしっかりと閉めていた。 

 不思議な事が発生した 

 その後の数日間、彼女のことを心配している人が至る所で彼女の行方を探し、また警官に連行されたと思い(この数年来喩福祥氏が警官にかってに理由なしに連行される経歴を通して、そう思っていたが、誰も彼女が家に立てこもっているとは思いつかなかった)、警官に確認しに行った。警官がどうしても喩福祥氏を逮捕したことを否認した後、13日の晩、彼女の数人の知人が彼女の家の扉をこじ開けた。彼女の扉と窓はしっかりと閉められていて、そのうえ、部屋の中のすべての物を使って扉のところで障害を設け、洗面器さえ扉の前に置かれていた。ひとしきりぱんぱんという音がした後、部屋に入ることができ、部屋の中にいる喩福祥氏は横たわっていてすでに気息奄々としていたのが見えた。110と120救急車を呼んで病院に送り届けた。彼女の部屋の中、1文のお金、1粒の米、1枚の野菜の葉っぱ、1滴の油もなく、少しも食べられるものはなく、ただ1つの空っぽなストーブが静かに置かれていた。この6、7日間、喩福祥氏はどのように過ごしたのか、誰も知らなかった。 

 病院で喩福祥氏を探す 

 14日、多くの法輪功学習者はそれを聞いて病院へ彼女を探しに行った。しかしあちこち探しても見つからず、看護婦に聞いたら、「喩福祥氏はもう治って、すでに退院した」と答えた。こんな人命にかかわる最も重要な時、公安局と病院の関係者はどのようにぐるになったのかを知るよしもなかった。しかし目撃者によると、喩福祥氏は腫瘍科の病室にいて、彼女を見た時、顔、全身も血だらけであった。 

 喩福祥氏が慌ただしく火葬された 

 15日午前、数人の法輪功学習者は引き続き病院へ喩福祥氏を探しに行った時、病院にたくさんのパトカーが止まっていて、宝塔中学校の校長宋新異もいたのが見えた。学習者達は喩福祥氏を見つけられず、少しの情報も得られなかった。午後になると喩福祥氏がすでに火葬され、死亡時間は2004年5月15日午前4時であると聞いた。 

 区の教育委員会と宝塔中学校も逃れることのできない責任がある 

 喩福祥氏はいかなる生計の道がなく、一日に革靴を拭くことで3元か5元のお金を稼げば満足し、雨が降るとまったく商売がなく、そのため毎月稼いだお金は自分の生活に使っても足りず、普通一日二食で、時には一日一回しか食事を取れなかった。家賃は他の法輪功学習者が出資し援助し、たまに親戚からも少しもらったが、彼女はできるだけ他人からのお金を受け取らず、たとえ受け取っても毎回とても恥じてとがめていた。喩福祥氏の生活はこんなに貧困であるのに、責任部門の黄州区教育委員会と宝塔中学校は、喩福祥氏が法輪功を修煉するため、生存の権利を与えず、毎月の最低の生活保証金さえ交付しなかった。黄州区教育委員会の関連責任者朱承傑と尹南田及び宝塔中学校の校長宋新異は、喩福祥氏の生活に関心を持たないだけではなく、かえって何度もお金を出して警官に協力し彼女を留置場や洗脳クラスに送り届け、迫害を加えた。 

 終わりに 

 私達は喩福祥氏が結局どんな残虐な体刑と苦難を受けたかは知らないが、彼女が留置場で何日間も断食で抗議し、革製のむちにひっぱたかれ、よく足かせ、手錠をつけられたことを知っている。喩福祥氏はこのような貧困の中、楽観的に生きていたが、警官の連行に対してそのように恐れていたことは、彼女の受けた迫害がいかに残虐であったか十分に分かるであろう! 喩福祥氏は冤罪が晴れないままにこの世を去っていったが、唯一残したのは公安局一科の周郁華が署名した喩福祥氏に対する罰金500元の領収書一枚であった。


 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/5/25/75439.html