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新疆の退職教師趙小平さんが北京の凶悪な警官により撲殺されるまでの経過(写真)

 【明慧ネット2004年5月29日】“新疆のお姉さん”こと趙小平さん。女性、62歳、ウルムチ人、教師をやめて後ある陶器工場の従業員となる。

 2000年12月28日、北京へ大法を実証しに行ったが、不法に延慶留置場に拘束された。2日後釈放されたが、また不法に北京の公安八所に拘束された。2001年正月4日、拷問を受け顔は打たれて様子が変わった。頭には卵の大きさのこぶが3つもあり、全身は埃だらけだった。話をすることができず、口をぴったり閉じていた。正月5日、もう絶望状態で、病院に運び込まれたが診断結果は:「肝臓、脾臓、胃が傷つけられて出血し、心臓、腎臓が腫れて大きくなり、もう絶望的……」正月7日、永遠にこの世を去った。(詳細は:「忘れ難い追憶——新疆のお姉さん趙小平さんの死」を見てください。)

 江沢民政治ごろつき集団に迫害されて死亡した大法弟子は、既に千名近くになっている。ずっと趙小平さんの名前が載っていなかったのは、彼女が北京の公安八所に撲殺された時、誰も彼女の名前を知らなかったからである。私も彼女がただ新疆の人であることだけを知っていた。その後彼女が“新疆のお姉さん”と呼ばれていたことを知った。

 2000年12月25日、あの血生臭い嵐の日に、私は北京へ大法を実証しに行った。26日の夜、北京郊外の大法弟子が自費で準備していた受付所に着いた。27日に身長が165㎝位で、褐色の短い裏付きの上着を着た、60数歳、笑みを浮かべ、とても元気で、とても親切な女性に出会った。彼女は新疆ウルムチからやって来たと自己紹介した。スパイの被害を防ぐため、ほかのことについてはすべてお互いに教え合わなかった。会話の中で次のことを知った。彼女は小学校の教師であり、98年に法を得て、自発的に法を学ぶ集団を組織し、毎日《転法輪》を読んでいた。彼女は3回北京へ行こうとしたことがある。1回目は徒歩で砂漠の中を三日三晩歩いたが、その後勤め先に追われ中断して帰らされた。保証書を書くことを拒絶したため、不法に15日間拘留された。2回目は管理人の厳重な監視の中を抜け出し、小さい裏道を廻って徒歩で北京へ向かったが、2人の息子に追われ中断させられて帰らされた。3回目は更に厳重な監視のもとで出て行き、列車に乗ってやっと北京に着いた。 

 12月28日、私達はいっしょに天安門へ行って横断幕を広げ、“法輪大法は素晴らしい”“真善忍はよい”“先生の潔白を返せ”という スローガンを叫んだ。その後不法に北京郊外地区の延慶留置場に監禁された。43人の大法弟子は男女の区別なく一つの部屋の中に閉じ込められた。一人一人立つことしかできず、座ることはできなかった。便所にも2人立たなければならなかった。通気孔も塞がれ、水道も断たれた。私と新疆の女性は自発的に立ち上がって、皆に学法と討論を行うように計らった。2昼夜で皆監房を出られた。

 30日午後受付所に帰って少し休んだ。31日にまた天安門に行った。この日北京へやってきた大法弟子はとても多かった。公安の人手が足りず、地方から多くの警官を呼び寄せてもまだ足りず、刑務所から犯罪者を出して、1人1日100元で(日本円1300円相当)法輪功学習者を逮捕させ、更に1人捕えると1年の刑期を減らすことができた。私達はまた不法に逮捕され、北京市の公安八所に送り届けられた。ここは延慶よりずいぶん邪悪的だった。中に入るとすぐ無理やり服を脱がされ、冷たい水をかけられた。その時私はまた趙小平さんを見かけた。

 私は趙お姉さんと、また皆と一緒に《洪吟》《論語》を暗唱するように計らった。趙お姉さんは《精進要旨》の中の多くの経文を暗唱することができ、特に《道法》と言う経文を、一編また一編と暗唱し、皆はとても感心した。11人の同修は邪悪な手配に屈服せず、板に座らず、囚人服を着ず、監獄規則を暗唱せず、監獄の警官は犯罪者に私達を懲らしめるように指図した。私達は彼らに法を広げ、真相を説明した。その後より、獄長の私達に対する態度が変わってきた。私達はまた一緒に断食して不法な拘束に対して抗議した。

 正月4日、私は趙小平さんと一緒に無理やり食物を注ぎ込まれた。体力が大いに消耗した。夜12時ごろ、突然呼び起こされ取り調べられた。警官はまるで殺人鬼のような顔をして、「速く、速く」と大声で急き立てた。取り調べ室に着くと、担当官はとても凶悪で、語気は鋭かった。「今晩はどうしてもあんたの名前と住所を言わせる。さもなければ、あんたを新疆の労働教養所へ送る!」私達の心の中には師父があり、法があり、少しも恐れなかった。しばらく苦しめてから、警官は方法がなくなり、私達を監房に戻した。獄長はまだ寝ていなかった。彼女は「3番(趙小平さん)ともう一人が帰って来ていない。」と言った。私も坐って待っていた。暫くして1人が帰ってきた。密雲ダムの人だった。私が様子を聞くと、彼女は言った:「私は殴られました。今晩は北京市の公安局長が視察に来ていました。局長は用心棒1人を連れて来ており、私が質問に答えないので、凶悪な徒はあの用心棒に指図して、黒い皮の手袋をして私を殴らせたのです。」彼女は涙を流した。私も我慢できなくなり涙を流しながら、彼女の頭を軽く撫でていたが、あのぼうぼうとした髪の毛の下は、すべて大小さまざまな瘤で覆われていた。

 どのぐらい待っていたのか分からないが、趙小平さんが帰ってきた。彼女は少しふらついていた。我慢している様子で、全身埃まみれで、特にズボンが甚だしかった。彼女は私のすぐ近くに来たが、私は彼女が密雲の人より更に酷く殴られたことに気付いた。顔も変形していた。頭には卵の大きさの瘤が3つもあり、口をぴったり閉じて、一言も言わなかった。彼女はとても疲れた様子で、また、大変痛そうでものも言いたくなさそうに見えた。私は彼女が泣かないことを知っていたが、しかし私は耐えられなくて泣いてしまった。私は自分の寝る場所を彼女に譲って横たわらせた。彼女は骨を折ってやっと横になったが、私に泣かないようにと軽く触れた。私はただよけいに涙を流すことしかできなかった。

 5日の午前、獄長が管理者に報告した:「3番は座るのが不安定になり、倒れてしまいました!」3番は趙小平さんのことで、獄長がぶつぶつと言ったことだけが聞こえた:「大丈夫だ、大丈夫だ。」彼女は担ぎ出された。暫くして情報が入って来た:大きな病院に送らなければならない。夕方、獄長がものを片付けていた。管理者が獄長を派遣して3番の看護に当たらせると周辺の人が私に教えてくれた。不安の中で私はまた一夜を辛抱して過ごした。6日の夜明け頃、獄長が帰ってきた。私達は早速情況を聴いたが、彼女は一言も言いたくなさそうだった——原因は考えてみると分かることだった。

 朝食後、監獄の医者が鉄の門の外で、私の名前(4番)を呼び話があると言った。彼は言った「私はこの辺でみな褒め称えてくれるが、昨晩緊急措置費だけで8000元(中国人一年間以上の給料に相当)を使ったよ。もし何か問題があったとしても、私には責任はない。」本当に邪悪な奴だと、私は思った。「どうしてそんなにたくさんお金を使ったのですか?」と聞くと、彼は言った:「彼女の“病気”は重すぎて、肝臓、脾臓、胃から出血して、心臓、腎臓は腫れて大きくなり……」。私は心の中で考えた。本当にひどく殴ったものだ。内臓はすべて傷つけられ破壊されてしまったのだ。私はまた焦慮と不安の中で一日を過ごした。

 7の日の早朝、大きい鉄の門が“バーン”と開けられた。女性警官が髪の毛を振り乱し、足を開いて扉に傍に立って狂ったように叫んだ:「人が死んだというのに、まだ名前も住所も言わない。あんた達を誰が知っているというのか? あんたは言いなさい!あんたは言いなさい!彼女は気が狂ったかのようにすべての同修を指差して言った。私達は3番の趙小平さんが北京市公安局に撲殺されたことを知っていた。皆は胸で合掌し1分間黙祷した。名前を知らなかったため、今までずっと文章にして報道できなかった。

 最近、先生の按配の下で、同修と連絡して話し合う中で、新疆のお姉さんが趙小平さんであることがやっと分かった。更に家から送られてきた写真で確認後、初めて彼女の迫害死の真相を世に伝え、訴えることができた。

 趙小平さんの家族はこれによって北京市の公安局長及びその部下に対して刑事訴訟を起こすことができ、元凶の江沢民に対して公訴することができる!

 提案:大陸で、趙小平さんのように迫害されて死亡し、まだ氏名の分からない同修はまだ沢山います。情況をよく知っている大法弟子はこの方面で互いに更に協調し、更に綿密に仕事をし、全面的に迫害の真相を明らかにし、徹底的に江氏政治のごろつき集団の邪悪、凶暴、残虐な真実の面構えを暴露して、全中国、全世界のすべての善良な人々に知らせようではありませんか! 邪悪の逃げ道を遮断しようではありませんか!


 (中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2004/5/29/75885.html