日本明慧


“正念正信”を持つことで、初めて正しい行いをすることができる

文/中国大陸大法弟子 青源

 【明慧ネット2004年6月3日】

 最近、私と周囲の同修たちにそれぞれいろんな“病業”の症状が表れるようになり、中には二人の状態は比較的酷いもので、一人は入院し、もう一人は病院で注射を受けるところで危うく命を落としそうなところだった。このことについて、私は個人的な認識を述べておく。

 私たち修煉者が遭遇するあらゆることは偶然なものではない。表面からみて、これらの同修たちがみな99年7.20日以前に法を得た古い学習者であり、修煉の基礎は整っている。しかし正法が最後の時期に入ろうとする中で、なぜこのようなことが起こりうるのだろうか? その根本的な原因を究明するならば、私はやはりまだ“正信”の問題が存在しているのだと思う。

 同修のAさんは、ある日突然全身の力が抜けて、心は締めつけられているような痛みで息が苦しくなった。十歩も歩かないうちに休憩しなければならない、自分の原因を探してみると、結論は“何も間違ったところはないよ?”しっかり考えてみると“なるほど、邪悪の黒い手が直接私に対して迫害をしているのだろう”と。続いてすぐに正念を発して旧勢力の黒い手による迫害を取り除こうとしたが、数日経っても、状況の改善が見られない。周囲のいろいろな説得に耐え切れず、最終的には“私はまだそのような高い次元に達していないから、この関門をくぐり抜けることはできないようだ”と言い、ため息をつきながら病院に行き、点滴注射してからまだ十分も立たないうちに窒息するようになり、幸いその時に早く発見され、すぐに注射針を抜き出して、医師、看護婦たちの救助によって、同修Aはやっと意識を取り戻すことができた。それからためらうことなく病院を出た。

 同修のBさんは、ある日脳梗塞の症状が出て、手足が自由に動けなくなった、子供が泣き、妻の説得により、数日間を堅持して耐えてきたが、それから仕方なく夜中に自分の車でこっそりと病院に運ばれた。というのは昼間に行くと大法弟子の“面目”を失うことになるからであり、それに同修たちに障碍を作るのを恐れていた。病室のベットに倒れこんで自分の“漏れ”を探していた、それはすべて表面的なことをうまく処理することができなかったなどの反省であった。

 同修のAさんにしても、同修のBさんにしても、確かにみな“内に向かって探している”が、しかし誰も自分の本当の“根”に触れることができなかった、一つの強大な障碍である —あなたは一体誰を信じているのですか?

 『転法輪』の第一講の部分の“本当に高い次元へ人を導く”の中で述べられたように:“私はここで病気治療の話をしませんし、病気治療などもしません。しかし本当に修煉しょうとする人の身体に、病気があっては修煉できるわけがありません。ですからわたしは身体を浄化してあげなければなりません。しかし身体の浄化をしてあげるのは本当に法輪功を学びにきた人、本当に大法を学びに来た人だけに限ります。”私たちは大法弟子として、自分の心に対して聞いてみよう、自分は本当に師父の講じたこの法を信じているのか? 本当に無条件で師父に付いて修煉するつもりでいるのか?

 常人として、病気になったら病院に行くのは当たり前ではあるが、しかし一人の修煉者として、どんな基点で問題を見ているのかはとても重要なことである。師父は『転法輪』のなかで“真の煉功者としては、高い次元に立って物事を考えなければならず、常人の考え方で物事を考えてはいけません。なぜなら、病気だと思ったとき、あなたの心性は常人と同じレベルに下がったからです。”とおっしゃったように、私はこの同修たちと一緒に八、九年も過ごしてきたが、そして師父を“信じ”て今日まできたが、しかし“百年、千年も人の骨の髄にまでしみこんだ観念”はまだ最終的にきれいに取り除かれていない。生死にかかわる時になると、自分が苦痛に耐えているときに、私たちの最初の一念は何だろうか? 大法なのか? 師父なのか? それとも“病気による痛み”なのか、あるいは病院なのか? 同修のAさんが“邪悪な黒い手が直接に私に対して迫害をしているのだろう”と言ったが、しかし私たちは旧勢力の黒い手がなぜ私に直接迫害しないのか考えただろうか? 私たちの真底までに隠されているその根が大法、師父にたいしてまだ不穏だからではないだろうか? 心の中では自分が業を消しているのか? それとも本当に病気なのかと躊躇っているのではないだろうか? まだ現代の医学が私たちの問題を解決してくれるとでも期待しているのだろうか? もし“正信”がなければ、いずこに正念があろうか? “正しい行い”など言及することもできないでだろう。表面の華麗さというものは根本的な問題を解決することができない。

 私たちは旧宇宙の中から歩み出でた生命であり、旧勢力は私たちに何層にもわたってそれらのものを配置していた。特にその“私のため、我のため”の理が、しばしば私たちを束縛していて、私たちの“正信”に影響を及ぼしている。まさに同修のBさんが、脳梗塞の症状が現れたときに、親族の者が泣きながら病院へ行くように説得する中で、これらに直面した際、もし“我”を第一に置いたら、それでははっきりした理性的な頭脳を保持することができず、もし旧勢力の配置に服従していたら、言われるがままに行動するようになってしまう。もしあなたが完全に自分を病人とみなしたら、それではあなたは彼らの束縛から逃れることはできない。なんといっても、また常人の基点に立って、この現実の社会の中から問題を見ている。まだこの見えているもの、そして触れるものの方が現実的だと考えている!

 またもう一人の同修のCさんは、修煉してからもう八年が経つが、私たちのところでも“元老”だと言えよう。その外の面においてはまだいいが、しかし今日になっても毎日少しの薬を飲んでいる(一錠の薬を何回分に分けている)そして“私の××病は、この少しの薬に煉功も加えてなかなかよい”と言っている。時には自分が道理をわきまえていないのに気づき、“私はこの問題においてはまだまだ常人にすぎない”とも言っている。師父の話をもって自分の強大な執着を隠そうとしていて、堅く掴んで離そうとしない。実は、その飲んでいる少しの量の薬の問題ではなく、やはり“正信”の問題である。一念の差というのは人と神との区別である。師父がおっしゃったように、私たちに残されている時間はもうそう長くはない。それではあなたはいつになったら“この問題においてはまだまだ常人にすぎない”ことを解決するのか? 修煉は厳粛なものである。少しの疑いも許さない。

 実を言うと、“あなたは一体誰を信じているのか”という問題は私たちの日常生活の中でもしばしば見られる。例えば野菜を買うときに、時にはこの野菜は鉄分を補充してくれる、あの野菜は血圧を下げてくれるなどと考えたがる。果物を買うときにもときどき、この果物はビタミンCを多く含んでいる、あの果物は体にいい・・・・・・などと考えたがる。確かに常人としては間違いない。世の中のあらゆるものは人類を繁栄させるために作られているからである。しかし修煉者としては、別の角度から問題を見なければならない。より高い標準をもって自分を要求しなければならない。これこそ修煉である。

 師父がわれわれに説かれた“改正”(経文『改正』)から、“大法弟子の神の一面を復活させましょう”(『2004年復活祭ニューヨーク法会での説法』)までで、私は悟った。これは正法が新しい段階に入ることを示し、そして私たち大法弟子たちにとっても、より大きい次元に上ることを要求している。心性の基準からみても一つのより大きな容器に変えねばならない。身体の転化もますます表面に、ますます強烈であるべきである。ゆえにわたしたちにより真面目に法を学ぶように要求している。本当に法理での向上を求められている。“今回の苦難を経て、まだ冷静ではっきりしない学習者がいます。そのままではあなたはこのすべてを失うことになります。師父の要求通りに行うことだけが大法弟子が法を実証し、自分を修煉することとなり、それで初めて本当の大法弟子と言えるのです。”(師父評注『清醒』)同修たちよ、肝心な時に何を選ぶのかは私たちで決めることではないか! 私たちにこの万古なる機縁を共に珍重していこう!

 ここで同修たちに一つの物語を推薦します。下に書かれたこの物語はある他地区の同修が私に述べたものである。7.20以降、私が大法への悟りがまだ深くないため、どうすればよいのか知らない状態に陥った時に、間違った道を歩んだために大法に不可避な損害を引き起こすのを恐れていた。そのときにこの同修の助けによって、私は自分を省み、動揺することなく北京へ法を実証しにいった。—

 ある道を修める人にはたくさんの弟子がいたが、ある日一つの消息が流れてきた。師父が病気を患ったと言う。そこで一部の人が師父を離れて去った。数日経つと、また消息が出てきて、師父の病気が重くなったと言った。そしてまた一部の人が去った。最後に師父が病気のために世を去ったとの消息が出てきたときに、みんなが去っていった。ただ七名の弟子が残って師父の送別に行った。そのときに師父が起き上がって、この七名の弟子を連れて道を修めに行った・・・・・・

 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/3/76295.html