日本明慧

人の観念で形成された各種障害を打破する

作者:ドイツの学員 清心

 【明慧ネット2004年6月6日】最近、同修のひと言で、私はついに長年私を妨害してきた、ひとつの障害を突破しました。私はドイツに来てからかなり経ちます。かつてドイツ語で修士論文と博士論文を一篇ずつ書いたことがありました。どういうわけか分かりませんが、いつも自分のドイツ語の能力があまりに欠けていると感じ、文章を訳すことができずにいたのです。もちろんその理由もあります。すなわち、自然科学の専門的文法と語彙は簡単で、しかも重複することが多いのですが、修煉に関する語彙は複雑で、しかも常用しないもので、当然、難度が高い、などなどです。ですから、ウェブサイトの翻訳の仕事は大いに人の協力を必要としますが、その他様々な原因もあり、私はこれまでお手伝いしたことがなかったのです。少し前、私が翻訳チームの担当者に一篇の文章を推薦した時のことです。彼は私が翻訳するよう提案しましたが、私はすぐさま断ったのです。電話を切ったあと、私は躊躇するのはよくないことだと思い、再び電話をして翻訳の仕事を受け入れたのでした。結果的には、翻訳はとても順調に進み、決して想像するほど難しいことではありませんでした。それ以降は、ずっと翻訳の仕事に加わっています。不思議なのは、このようにたやすくでき、突破できる障害が、意外にも私をこのように長年邪魔していたことでした。このことがあってから私は目覚め、いくつかの法の原理について文章まで書くようになりましたが、皆様とともに探求させていただきたく、また不足なところがあれば、ご叱正、ご批判を賜りたく思っています。

 すべての人に修煉の過程の中で様々な“邪魔”が現れますが、これら“邪魔”の多くは自身からきているものです。旧勢力が今回の正法を妨害するため、私たちに各種の観念と思考の仕方を無理やり押しつけ、私たちに一種の束縛を形成し、法を実証することを妨害しているのです。私たちを時に、おじけづかせ、これは駄目だ、あれも駄目だと、自分を無能だと思わせているのです。この事はこのようによくないのだと思わせたり、そのようにしたら常人の状態に合わなくなる、などです。また、時に過激にさせることさえあるわけです。正法の活動の中、同修の関係の中で、これら観念も妨害をもたらしているのです。例えば「今日は身体の調子が悪く、休まなければならないから、今度の活動は参加できない」とか、「雨に濡れたら、頭の中にすぐ風邪をひくという考えが現れる」とか、「寝るのが遅くなったけど、明日はまた重要な事があり、精神状態もよくないが、どうしようか?」とか、「この同修は今日、私を相手にしてくれなかったし、言葉遣いも失礼だった。どういうことなのか、おそらく……」など。すべてが、人の観念が脳内に形成した固定化されたものの考え方になっているのですが、これは常人の理です。問題の解決方法も常人の方法ですが、それは私たちの正念を邪魔しているのです。

 正法の時期の大法弟子として、私たちの正念は十分に他の次元の正法を邪魔する化け物を消滅させることができる——これは私たちが毎日、正念を発していることです。しかし、私たちは具体的に常人の形式で法を実証していますが、衆生を済度する際、「さて、自分にはできない、能力がない、各種の気がかりがある」と考えているのです。明らかに、これも人の観念ではないでしょうか? 「皆さんが人間の状態を変えようとせず、理性からも大法を真に認識するまで昇華しなければ、皆さんは機会を失うことになるのだ。皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄まで染み込むようにして形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取りのぞくことはできず、円満成就することはできないのである」(《警告の言葉》精進要旨55ページ)

 私たちは大法に対し、責任感を持っています。この純正なる心さえあれば、多くのことはおこなえば成功するのです。しかし、具体的なことに遭遇すると、また人間の考え方に逆戻りしてしまいます。人間の技術、能力、知識、技巧、方法などで物事を考え、判断するわけです。実は私たちにとって、あることが成功するかどうかは、決して用いる方法や人の能力で決まることではなく、心の純正さ、法に対する堅固さの度合いと、どのような意図によるものかで決まることなのです。それに、先生は「大法弟子にできないことはない」とたびたび仰っているではありませんか。しかし、私たちはどうしても常人の能力を用いて、物事の成功と失敗を判断せずにはいられないのです。まさにこの千百年来に形成された人の観念が私たちの能力を妨害しているわけです。先生は《2002年米国フィラデルフィア法会での説法》の中でこう仰っています。「つまり、常人の後天的に形成された体はただ一つの担体であり、人間の肉体の脳に唯一存在することのできる考えは、実は人類が成長の過程で積んだ経験が頭の中で形成された表面の観念であり、肉体の本当の考えはこういうものです」このように、私たちが脳味噌を絞って一生懸命に何かを考えている時に働いているのは、後天的に形成された観念だったのではないですか? しかし、これら観念がいつ形成されたかについては、自分でもよく分からないのです。つまり、後天的に形成された観念は、私たちの正念正行を妨げることができ、正法時期の大法弟子として自らが超常的能力を持っていることを私たちに疑わせることができるわけです。多く法を勉強して、はじめて絶え間なくこれら観念を捨てることができ、思想業力が形成する各種障害を突破することができ、それにより自分の心と人類社会の中の見せかけの束縛から突破することができるのです。

 (中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/6/6/76429.html