日本明慧

すべての不正な要素を取り除き、純粋な心理状態で師父と法を敬う

 文/西洋人法輪功学習者

 【明慧ネット2004年6月12日】しばらくの時間、私は極めて深刻な思想業力の影響を受け、その中には、師父と大法に対していくつか下品な言葉もあった。私は、自分が二十年の人生の中で積もった業力が原因の一つだと知っていた。しかし、私の思想中の業力が旧勢力に無理やりに押し付けられたことがあるということも知っていた。私はこれらの業力が私の願望と反することを知っていて、それで正念を発し、少しずつそれらを取り除いていた。

 邪悪な思想業力が私を邪魔する時、私はそれが私の思想まで反映する前にそれを阻止した。私は、このような思想業力は、私が心性の関所をうまく乗り越えなかった時によく現れていることに気づいた。私は後悔を感じる時、または長期にわたり心性の関所をうまく乗り越えられず、悶々としているような常人の思想を持った時、そんな業力が起きてくることが分かった。

 私は自分がその中から得た悟りを皆さんと一緒に分かち合いたい。まず、心性の関所をうまく乗り越えなくて、常人のような憂鬱と悲しみの状態に陥ってしまうわけには行かない。事実上、このような状態はかなり強い破壊の作用があり、表面的に見ると、私たちは真に内に向かって探して、自分たちの修煉状況を検査するようであり、私達は努力し内に向かって探して初めて、どこか問題が出たようである。ところが、これには、相違点が一つある。修煉者が内に向かって問題を探すのは、常人の後悔とは異なるものだ。修煉者が内に向かって問題を探すということは理知で、極端を歩かないものだ。

 これは邪悪な思想の業力が私の思想の中に反映できる一つの原因かもしれない。旧勢力は私達に彼らの設置した“関所”を通過させようとし、そして私達があれらの関所を通過しなかった時、彼らは私達に、私達がやったことはとても悪いことだと感じさせて、なおかつ思想業を私達の頭の中まで無理に押しつけて、これらの業力が自分たちのものだと私達に思い込ませる。

 このような状況における時、私は落ち着いて、目を閉じて、真の私がここにいると感じた。それらの考えは明らかに私のものではなく、修煉の人どころか、常人さえも、こんな邪悪の不潔な事を思い付くわけがない。私はそれらが自分のものではないことが分かった。本当の私は先生と大法に対して極めて尊敬するものだ。私はある学習者が師父のご慈悲を述べた部分を読んだ時、いつも涙を流す。私は心から大法の素晴らしさを知っている。

 邪悪な思想は絶対に私自身のものであるはずがない。私はなるべく思想の中にあれこれの邪悪な生命の根源を探して行った。私は直接彼らに対して、「私は、このように演じるのがまだどのぐらい持続できるのか、見ている」と言った。私は堅持しなければならず、しばらくの時間が経って、それらは消えてしまった。 

 二点目に、私ははじめて、私達が関所を乗り越えられるかどうかに関わらず、私達が次元を向上するかどうかに関わらず、私達の心性が高まるかどうかに関わらず、私達は終始大法を尊敬しなければならないことを知った。私達が憂鬱の要素の中に陥った時、私達は何もする資格がないと感じた。私は、これが大法の学習者の責任を否定することと等しくなると思っている。他の次元で言うと、これは大法を否定することと同じである。私達は必ずとてもはっきりとし、たとえ私達は関所を通れないとしても、早く悟るべき理を悟ってなくても、あるいはたとえ私達はよく修めてないと感じたとしても、私達の思想の中には、いつも通り大法を尊敬しなければならない。

 私達は分かっていなければならない。法は私達の修煉のために変わることがない。自分がよくやっていなかったために、旧勢力が大法へのいずれかの不敬を行うことを、私達は絶対に許さない。私達が変わるかどうかに関わらず、大法は永遠に正しいものだ。正法はどんな人でもどんな理由でも左右できないものだ。

 普通の人で大法のいいところを言ったことがある人や、それに大法が素晴らしいと知っている人は、修煉者ではなく常人であっても、大法に対してある程度尊敬をし、非常に敬慕もしている。そしたら、私達は大法弟子としてどのようにすべきだろうか? 大法学習者はすべての不正な要素を取り除かなければならず、純粋な心理状態で師父と法を敬うのである。

 以上書いたことは、同じような経歴のある学習者に問題の根本的な原因をはっきり認識させ、なおかつ直ちに取り除いてもらいたいからである。

 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/12/76919.html