日本明慧

師父の評注である《認識をはっきりさせよう》とそれに関する学習者の文章を読んだ後の感想 
─ 共に精進して、更に冷静なり、頭をはっきりさせ、ますます成熟するようにー

 【明慧ネット2004年6月16日】『厳格に法を師にして、先生が公表した以外のCDを廃棄しよう》というある学習者が書いた文章の中に言及された問題は、とても重要かつ厳粛なものである。大法の中のものでなければ、私達がいかなる口実をもって無断で保存・回覧または複製することはすべて法を乱す行為である。

 常人の心と常人の情で師父と大法を見ており、法に基づいていない学習者がいる。また、求める心、好奇心をもって、いつも師父がまたどんな新しい講法をしたのか、どんな新しい内容を言ったのを知りたい学習者もいる。もちろん大法弟子、特に大陸の弟子は先生の新しい講法と先生の顔と声を見てみたいという気持ちを理解することができ、これは正常なことで咎めるべきではないと思う。しかし、常人の心と求める心があってはいけない。詩賦の講法が正式に発表された後に、手元にある資料は直ちに廃棄するべきで、「廃棄したくない」、「記念にしたい」、甚だしきに至っては回して見ている。これは大法を守ることであり、人間の心と常人の情で対処してはいけない。先生が新唐人テレビ局の特別取材を受けたのは、海外の常人のためにそうしたのであって、師父が明慧ネット上で正式に発表した、修煉を指導するものではない。

 異なる環境で求める心をもっている大陸の学習者がこのCDを見て、かえって良くない効果がもたらされた。したがって、CDを回して見たりコピーしたりしてはいけない。海外の学習者もこれらの要素を配慮し、情に動かされ、熱心にこれらのビデオを回すべきではない。

 全て発表された説法、弟子がいつも勉強すべき説法は皆明慧ネットに発表されるため、明慧ネットに準じるべきである。なぜならば、これは師父が決めた規則であり、私たちの修煉に責任を持つためである。それなら、私たちも頭をはっきりさせ、冷静で厳粛に自分の修煉に対して責任を持つべきではないだろうか?

 また、師父が発表していない写真、学習者が書いた本または学習者が自ら書いたり求めたりしたものも大法のものではないので、学習者の中で広めてはならない。「大法弟子の間で大法そのものと関係ない如何なることをも決して広めてはならず、大法弟子を妨害してはいけません。」(《2004年米国西部法会での説法》)これらのものと偽経文を他の人に回している学習者に対して、厳しく指摘し、それを破棄すべきである。これこそ本当に大法を守り、師を敬い法を敬うことである。

 大法弟子の時間が非常に限られており、三つのことを全て良く行わなければならない。師父が発表した説法が非常に多いので、着実にしっかりとこれらの説法をよく勉強し、精力を無駄なところに使ってはいけない。私たちが読むべき説法は必ず明慧ネットに発表され、自然にそれを読むことができるようになる。忘れてはいけないのは、求めずとも自ずと得ることである。

 実はこの問題について、師父は以前の説法の中で既に説かれたことがある。師父のコメントである『認識をはっきりさせよう』は再び警鐘を鳴らした。この問題だけではなく、私たちが法を正す中で遭った全ての関と難、全ての出来事、ひいては全ての一念に対しても、「正念を持って対処することができるかどうか、師父の要求通りに従って行うことができるかどうか」ということである。「旧勢力は全ての大法弟子に対して旧勢力のものを按配した」(「認識をはっきりさせよう」)。しかし、師父は根本から旧勢力の按配を認めておらず、更に高い按配をしたのである。法を師にし、師父の要求にしたがって行っていれば、即ち師父が按配した道を歩んでいることである。この道はまっすぐで光り輝くものであり、相対的に言えば魔難が少なく小さいのである。修煉のよくできている学習者、正しい念と正しい行いを持っている学習者はこの道を歩んでいるのである。師父の要求にしたがって行っていない学習者はほかでもなく、旧勢力が按配した道を歩んでいる。この道は険しく、巨大な関と難と常に隣り合わせになっている。正しく行えなかった学習者、間違った道に入ったことのある学習者、ひいては大法と反対の立場に立ってしまった学習者は程度が違うが、皆旧勢力が按配したこの道を取ってしまったのである。師父の慈悲によって、戻ってくることができる人がいるが、余計な魔難を受け大きな苦痛を味わい、消すことのできない汚点を残してしまった。師父の要求にしたがって行い、旧勢力の按配を徹底的に否定してはじめて、私たちの道を正しく歩むことができ、それこそ本当の大法弟子である。

 もう一度『認識をはっきりさせよう』を読み直し、本当に頭をはっきりさせよう。

 学習者として、師父の要求にしたがって行わなければ、きっとただで済むことにならない。旧勢力は全ての学習者に対して旧勢力のものを按配した。大法弟子が師父の要求に従って行っていなければ、きっと旧勢力の按配に行ってしまう。旧勢力は実は法を正す中で大法弟子が歩んで来られることかどうかのことに対してやっており、旧勢力がいつも皆さんと隣り合わせになっている巨大な関と難と一緒にあるのである。

 今回の魔難を経て、認識がまだはっきりしていない学習者がいるが、このような学習者はこの全てとすれ違ってしまうことになる。師父の要求にしたがって行ってはじめて、大法弟子が法を証明し、自らを修煉していることになり、本当の大法弟子になるのである。

李洪志

2004年5月8日

 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/16/77180.html