日本明慧


「独りよがり」は修煉者の大いに忌むことである

 【明慧ネット2004年6月14日】同修と接触する中で、私は皆それぞれに1つの観念が存在していることに気付いた:独りよがりである。表した形式は多種多様である。ある人はいつもよく自分のかつての栄光を誇示する;ある人は孤高、傲慢で、反対意見に耳を傾けない;ある人は自分の観念に固執して屁理屈をこねる。このような観念はすでに個人の修煉と全体の高まりに対して障害になっていると思う。深刻なのは旧勢力の隙に乗じられる可能性が高い事だ。私が観察した現象だけから見て、顕示心の強い人がわりとひどく迫害されている。非凡を自任したのは失敗しがちだ。彼らの中に多くの人は根基と悟性がわりとよくて、とても苦に耐え修練し、努力しているが、ただ一念がゆがんだため、結局自分はとても受動的になってしまった。私はそのことをとても悲しみ惜しいと感じている。私は考えたすえ、ついにこれに対して公に話すことを決心した。この面で欠点のある同修が今後の戒めとして、みなさん全体の高まりを望んでいる。

 独りよがりな根源は利己的な旧宇宙の理の束縛と、自己の常人の観念に固執したためで、修煉と法を正すことに反している。独りよがりな人はいつもむやみに尊大で、自己中心的、個人の願望を強調する。このような心を長期にわたって助長させると、個人はとても狭い自己の中で、ケースに入った人間のように、宇宙の浩瀚広大さ、佛法の威厳、衆生の苦難が見えず、更に自身の欠点と他人の長所が見えないで、謙虚なすばらしさと寛容な広大さを体得できない。

 常人の中に“謙虚であれば受益する、自慢であれば損失を被る”という道理がある。修煉の人は常人の境地より高くなければならない。私達はもっとよく行うべきである。佛法は博大で、奥深いものであり、先生が私達に新しい人生を与えたので、私達はただの修行者で、たとえ私達がいくら高く悟り、いくらよく行ったとしても、ただ1つの次元の中のほんの少しの認識であるに過ぎない。私達は慈悲の先生と苦難な衆生の目の前で、思い上がって尊大ぶるどんな理由があるのか?このような考えをもっている同修達は恥ずかしく思うべきで、精進することを知るべきである。個人の執着とよくない観念に固執することは、自分をますます法から遠ざけてしまう。ただ自己を放下し、法を以って師にし、厳しく自分に要求し、心の中に衆生の苦難を思い、至る所で他人のために考えてこそ、初めてだんだん利己的、私のための観念を取り除くことができ、正々堂々と無私無我の境地へ向かっていくことができる。佛は大きな知恵を持っていて、天上には苦がないが、しかし衆生のためにすべてを捨てることができる。もしも彼らが独りよがりであれば、下りてきて苦しみに耐え衆生を済度することはありえない。私は佛にはこの心がないはずだと信じている。


 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/14/77025.html