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遅れたニュース:黒龍江七台河市の法輪功学習者二人が迫害により死亡

 【明慧ネット2004年6月24日】

  黒龍江省の70歳のお年より張守信さんが2001年に迫害により死亡

  黒龍江省七台河市の70歳の大法弟子張守信さんは、2000年6月北京に行って横断幕を広げて法輪功の為に正義を求めました。その後彼は七台河市の第1留置場に拘禁されました。拘禁中全身が腫れ疥癬が生じ、排尿困難になり、大量の血が尿から排出されました。2000年10月に釈放されましたが、2001年の旧暦の4月に家で冤罪が晴れぬままこの世を去りました。

  張守信さんは、男性、70歳、黒竜江省七台河市の赤旗郷大河村に住んでいます。彼は17歳から父について佛門で修煉しました。文化大革命の中で迷信を打ち破る狂気じみた弾圧の情況の下でも、依然として自分の信仰を堅持してきました。96年に張守信さんは縁があって法輪大法と出会い、徳を重んじる大法であることを知り、自分の息子達に大法を学ばせ、自分は依然として今までの修煉法門を続ける決意をしました。その後師父の2回の悟りを受けて、やっと自分の父が亡くなる前に「将来生きた佛が三宝を伝える、その時期を見つけて修煉すれば必ず本性に戻れる、くれぐれも機縁を見逃さないように気を付けて!」と最後に残した言葉を思い出し、今までの修煉法門を放棄して、家族皆で一緒に大法の修煉を始めました。

  修煉を始めた後、張守信さんの長年に渡って治らなかったリュウマチによる腰痛、尿道結石、前立腺炎などの多種の病気がなくなり、子供達と一緒に現地に6個所の煉功点を作りました。
99年の7.20から法輪大法は江氏集団の弾圧を受け始めましたが、張守信さんは自らの信念を放棄しませんでした。そのため彼は99年11月と12月の2回に渡り拘束され、党籍からも除名されました。それ以後、村の書記劉福海、董雲山と区の警察王大偉は常に「教育手伝い」の名義でかき乱されました。2000年6月20日に、張守信は妻と息子、娘、息子の嫁を連れて北京に陳情に行き、天安門広場で横断幕を広げて大法を実証していた時に、凶悪な警官らにめった打ちにされ、七台河の北京に駐在している事務所と地元の派出所で拘束され、その後七台河市第1留置場に送られて不法に拘禁されました。

  拘禁中、張守信さんは肉体および精神的に迫害を受け、全身がむくんで疥癬が生じ、排尿困難になり、大量の血が尿から排出されました。家族と正義人士の強い要求で、2000年10月に地元の派出所は張守信さんの家族から2000元の金を奪い取ってから、やっと彼を釈放しました。張守信は家に帰ったが、迫害により体が虚弱したため回復せず、2001年の陰暦の4月に冤罪が晴れぬままこの世を去りました。亡くなる前まで彼は師父の《洪吟》の「日月潭で泳ぐ」を暗唱していました。

  七台河市の定年退職者朱俊さんが迫害により死亡

  黒龍江省七台河市の定年退職者朱俊さんは人々に法輪功の真相を伝え続けたため、非法に捕まえられて、七台河第二看守所に半身不随になるまで拘禁されました。その後釈放されて家に戻りましたが、2002年3月に死亡しました。

  朱俊さんは、男性、54歳、黒竜江省七台河市の新建砿の定年退職者です。97年10月から大法の修煉を始め、99年11月に同修の家に行く途中に凶悪な警官らに連行され、15日間拘禁されました。99年12月、朱俊さんは地元の610(法輪功取締り本部)に行って大法を実証したため、不法に3年の労働教養を言い渡されました。彼は迫害により病弱になったので、労教所は受け入れず、七台河第二留置場に拘束して迫害を続けたので、2001年9月半身不随になり、自立出来ない状態になったが、留置場は彼を釈放せず迫害を続けました。その後、家族の強い要求でやっと釈放しましたが、彼は2002年3月に家で冤罪が晴れぬままこの世を去って行きました。


 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/24/77827.html