日本明慧


経験と教訓を汲み取り、もっと多くの衆生を済度する

 文/イタリアの大法弟子

 【明慧ネット2004年6月26日】私はイタリアの大法弟子です。1996年に法を得て、2000年10月に仕事の面での育成訓練のためにイタリアに来ました。あの時イタリアの法輪功学習者は少なく、私は積極的に現地で法を広げ、真相を伝える活動に参加しました。その後私はイタリアに残り、引き続き法を広げ、真相を伝えることに決めました。次に同修と4年余りイタリアで大法を実証し、衆生を救う経験と教訓についてお話したいと思います。

 本当に善の心になれば、結果はよい方向に向かうはず

 私はイタリアに残りましたが、しかしどのようにすれば最もよいのか分かりませんでした。その時、どちらにしても、法輪功の学習者として、私はイタリアの法律と法規に背いてはいけないと思いました。もし早く合法的な居留許可をもらうことができなければ、たとえ私は中国に帰って迫害を受けるとしても、私は必ずビザの期限になる前日には帰国しなくてはなりません。それで弁護士は、最も速く合法的にイタリアで居住許可を獲得しようとするには、避難の申請する事だと提案しました。2000年末に私は別の2名のイタリアの同修と警察署に行き、同修の一人が二人の警官に来訪の趣旨を説明しました。最初は警官がそれを信じないだけではなく、かえって私達が不法な企みがあるのではないかと疑いました。

 その時、私は必ずイタリアに残ることができ、またその決定権はこの警官たちにはなく、私たちはただここに真相を伝えるために来たのだと悟りました。そこで私は別の同修に通訳になってもらって、落ち着いた警官たちに、私と家族が中国で真善忍を信奉したため仕事を失い、不法に拘禁された経緯を話しました。話す過程のなかで、私の心の内では彼らが真相を分かるようになって、正しい選択をすることができることを望みました。私のためではなくて、彼ら自分の未来のためです。彼らが聞き終わった後に、居留の手続きを手伝ってくれただけではなくて、更に熱心に無料の宿泊所を探してくれました。

 今回真相を伝えることを通して、私は悟りましたが、私達が本当に心から相手がよくなることを望み、善の心をもって、他人のために考える場合、結果としてよい方向に発展して行くはずです。大法弟子の正念は威力のあるものだから。

 大法弟子の責任をはっきりし、着実に真相を伝えます

 私はずっと自分が努力して真相を伝えてきたと思っていました。 以前ローマの中国系学習者は私一人だけでしたが、ローマは観光都市で、中国人の観光客が多く、あの時私はほとんど毎日名所、あるいは華僑地域で資料を配りました。しかしある時、現地の華人に質問をされてとても驚いたことがあります。それによって私はこれまでどうやって真相を伝えてきたのだろうか、と自分自身に問いただしました。その話の具体的な内容はすでに忘れてしまいましたが、内容自体は重要ではなく、肝心なことは、私がかつてそこで2年間も真相を伝えてきたのに、彼女にはまだそのような疑問が残っていたということです。それまで私は、彼女が既に真相を分かっている人だと思っていました。 

 私は自問自答し、どうしてこのようになったのか、原因はどこにあるのか、私はあまりに表面の形式を重んじている事に気づきました。毎日出て行って真相を伝え、資料を配り、甚だしきに至っては一人でいつもとても遠い華人の多い都市まで行って資料を配っていました。多くの時間を使い、経済的な問題も克服して、そんなに遠い所まで走って資料を配りましたが、しかし本当に真相を話す時には自分の責任を忘れて、それほど心を込めず、いいかげんに誤魔化していました。実はあれもまさに自分の心性の位置の体現でもあります。表面の積極性は自分をも騙してしまいました。ずっと自分は別に悪くないと思っていました。

 私は多くの時の心理状態は先生の《有為》という詩の中でおっしゃったように「廟を建て神に礼拝し、本当に忙しい、有為であることに気づいていないで;愚かに迷い、西天へ行く道(天に上る道)を妄想して、でたらめに探し晩に歩きながら月を取ろうとする。」修煉は厳粛なことで、衆生を救う事も常人の仕事ではないし、決して功労がなくても苦労があるという説も存在しません。注意深くその根本的な原因を考えてみると、やはり私心があるから、またその他に、なぜ私はそんなに(気を使っていなかった)心を込めていなかったというと、大法弟子としての責任感と慈悲の心を欠けていたからでした。

 先生は《2003年ワシントンDC法会での説法》の中に「私達がこの歴史を歩み終え、振り返った時、全ての大法弟子が皆自分のやりたかったことをやり終えたと言えるようになれば、(拍手)それこそ最も素晴らしいことです。(長時間の拍手)自分に申し訳が立たず、自分のやりたいこと、歴史が賦与してくれたことを実現することができなかった学習者も多くいます。」思い出すと、本当に心が痛ましいです。後悔しても何も役に立たず、損失はすでに起こってしまった事、立ち上がって倍に補うことしかありません。

 真相をもっと良く説明できるために、私は同修の間の交流がとても必要であることに気が付きました。一時期に一部の華人(特に大陸の観光客)の挑発の問題に対して、私はいつもどのように答えるか分からなかったことを覚えています。時にはまた自分の常人の心に動かされて、相手と口論しました。口論せずにうまく答えることができませんでした。同修と交流した後で、私はまず落ち着いて冷静を維持しなければならないことを認識して、自分は人心に動かされないようにしなくてはならないと自分に言い聞かせました。

 更にこの問題に出会う時、私は気持ちを落ち着け冷静な態度を持って、笑って言う:「あなたの話はこのように挑発して、私が法輪功を修煉しなければ、もうあなたを相手にしなくなるでしょう。しかし私は今、正々堂々とあなたに教えることができますが、私はあえて自分の言ったことはすべて本当の話だと言えます。私は人を騙さないし、日常生活の中で私は多くの他人のために考えることもできるようになり、またそんなに利己的ではなくなり、私はさっぱりした一人のよい人間になることができて、私はこの段階に来て、よい人間になろうとします。」彼は私のこの話を聞くと、構えることもなくなり、さらに笑ってうなずき、なるほどその通りだと言いました。

 先生は2004年シカゴで説法する時におっしゃいましたが「衆生を救い済度することは神の目から見れば、人類社会で誰かが過ちを犯したら、人間の方法でその人に過ちを改めてもらうというようなことではありません。神は慈悲深く、最大の寛容を持っており、真に生命のために責任を持っているのであって、人間の一時の行いを重く見ているのではありません。なぜならば、神は本質から生命を悟らせ、本質から生命の佛性を目覚めさせているからです。この点から見れば、皆さんは真相を伝える中で更に力を入れて、更に深くまで行い、真相をもっと良く伝えられるように、更にしっかり行わなければなりません。決していい加減に行ってはならず、真剣に良く行ってからはじめて、多くの人を救うことができるのです。」

 私は悟ったが、実は私達が常人に真相を伝える時、私達は一人の神です。神はどうして人に動かされることがありますか?真相を伝える時、もし私達がはっきり自分の責任をしっかり覚えることができれば、神の慈悲、大法弟子の寛容をもって、もっと良く行うことができるはずです。

 常人の観念を突破して、更に多くの衆生を救う

 言語の問題があり、私はずっとイタリア人に深く真相を伝えるのに気後れました。宣伝ビラを配り、中国で発生する迫害を簡単に紹介するぐらいでした。2002年のある日、同修は私にローマにある会社で全国に影響が比較的大きな新聞社まで真相を伝えにいくことを教えくれました。いつもの考え方では、しまった、私はイタリア語がよく分からないから、どのように彼らに話すのか、と思うでしょう。しかしその日に、このニュースを耳にする時、私の考えは「私がこの新聞社のすべての従業員に法輪功は何であるかを知ってもらいたい」という事だけでした。

 その時どのような結果があるか、言語の問題も、どのように記者との会見を予約するかをも考えていませんでした。そこで私は連続3日間、通勤の時間帯にこの新聞社のビルの入口で宣伝ビラを配りました。ビルの中のほとんどの人は皆大法の宣伝ビラを受け取りました。2日間配った後、自発的に宣伝ビラを取りに来る人もいました。数日後、同修は新聞社が彼女に電話してきた事を教えてくれました。新聞社は彼女に「法輪功が良い事が分かりました、誰もあの嘘を信じなくなりますから、この種類の事がもう発生することはありえないでしょう。」と声明しました。 

 この事の結果は少し私の予想に反していました。注意深く考えてみると、肝心な所は、その時私が彼らにただ法輪功を理解してもらい、嘘に騙されないように望んでいただけで、彼らがどのようにするかは期待していませんでした。実は世間の人は真相が分かり、人の心が正しくなれば、自然にどのようにするべきかが分かります。

 法を良く学んで、先生を堅く信じて、法を堅く信じる

 私はとても長い間苦しみの中に置かれていました。主に日常生活の方面で表われました。法を学んで正念を発しましたが、しかしその根本的な原因を探し当てることができずにいました。時には根を探し当てたと思って、少し良くなりましたが、二日も経たないうちにまた駄目になりました。その後から苦しみはますます大きくなって、食べる事と住居の事も問題になり、法を学ぶ時さえも「どのように苦しみから抜け出していくか」と考え始めました。時々甚だしきに至っては先生が私の面倒をみなくなると疑いました。仕事さえ見つけないほど無能になった以上、野山の峰を探してそこに座って餓死しようといつも思っていました。 

 先生は《転法輪》の中で「修煉自身は苦くありません、肝心なのは常人の執着を放下することができないから。」とおっしゃいました。しかし私はどうしてこんなに苦しく、こんなに難しいと感じるのですか?私は自分に対していったい修しようかどうか、真の修煉であるかどうか、先生を信じるかどうかを聞き始めました。私の修煉はすでに法に同化するためではなく、苦しみが無くなる為に修煉している事に気が付きました。私は執着がある事から旧勢力に隙に乗じられることを恐れました。私は生活の当てがないという苦しみに耐えることを恐れました。私も私は執着があるから先生が私を手伝ってくれないことを恐れました。要するに少しも大法弟子の正念はありませんでした。

 あの時唯一の正念は、どのようなことがあるにも関わらず私は修煉していく事でした。法を学ぶことに従って私はだんだんと認識するようになりました。主な原因は:先生をかたく信じていない、大法をかたく信じていない事。法理に対してはっきり認識するにつれて、修煉の人としては、執着があるのは怖いことではありません。肝心な点は先生と大法をかたく信じ、正念を持たなければならない事。つまり私達の執着を取り除くことは、自分の能力で達成することができるものではありません。先生が私達の修煉したい心が見えたため、取り除かされたのでした。これらが分かって、私は執着と苦しみをもう恐れなくなりました。

 先生はおっしゃいましたが、「あなたが正念を固め、執着を排斥することができるとき、私は少しずつ少しずつ取り除いてあげています。あなたにできる分を私は取り除き、その分を消してあげます。(拍手) しかし、修煉者として言えば、あなたは本当に修煉者のように自らに要求しなければなりません。時々まだできないかもしれませんが、少なくともあなたにはこのような正念がなければならず、自ら修めなければなりません。」(《2004年シカゴ交流会での説法》)

 私はまだ執着があることを知っていて、まだ気づいていない根本的な執着があるかもしれません。修煉の道でさらに難儀があるし、しかしこれらは恐れることはありません。私が修煉したいから、先生はありとあらゆる方法があって、私に執着を認識させ、取り除かせて、私を宇宙の大法に同化する新しい生命にならせます。

 慈悲深く偉大な先生にお礼を言います。同修にお礼を言います。

 (2004年にヨーロッパウィーンの法会の交流原稿)


 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/26/77992.html