日本明慧


法輪大法は私を苦境から救い、江氏集団は再び深淵に陥れた(写真)

 文/大陸法輪功学習者姚佐華

 【明慧ネットの2004年6月28日】私は、精神的肉体的に崩壊してしまう直前に大法を得ました。法の勉強を通して、毎日涙で顔を洗っていたほどの私は居なくなり、長年の胃下垂、肝胆疾病、子宮筋腫……もいつの間にかよくなっており、体の浄化と道徳の向上により私はすべての事に対し、全く認識を新たにすることになりました。つまり全ての事を“真・善・忍”に照らし合わせ、良い人になることです。

 人々は法を得たことを喜び、そして、より多くの人々が大法を知りたいと思っていました。しかし、そのような時、嫉妬した江沢民は99年7月20日、大法を政府の反対極面におき、大法と師父に対して天地を覆い隠すかのような誹謗中傷をしました。このような無法者の行為に直面し、嘗て私達は何回も陳情に行きましたが、事態がますます悪化するとは思いもよりませんでした。中国政府は、天安門焼身自殺や自殺などを捏造し大法を罪に陥れました。嘘と迫害を暴露し事実を明らかにするための、如何なる申し立ての方法も全くない情況下で、私達は社会の大衆に向かってはっきりと真相を説明しました。

 2000年11月のある日、私は真相資料を小香港近くまで配っていた時、老人を見かけたので、チラシを渡しました。その時、彼は反感を抱いていましたが、大法に対する自分の認識を話し、大法を大事にすることは自分の命を大切にすることだと彼に伝えました。そして、私はまた配り始めました。千金派出所まで行った時、突然後から捉えられ、派出所に引っ張り込まれました。直ちに数人の警官が私を囲んで身体検査をし、持っていた全部の資料と持ち物が没収されました。所長はすぐ資料の出所を問いただしました。知らないと言うと、彼らは暖房パイプに手錠で私を繋ぎました。午後2時ごろ、彼らは私に手錠をはめパトロール・カーに乗せて私の家に行き捜索しました。信奉している師父の法像と数箱の香を探し出して持って行きました。一日に亘る取り調べと恐喝に私は屈しませんでした。その夜の11時過ぎ、彼らは私を本渓市の看守所(彩北大白ビル)に護送しました。大白ビルに入ってまた検査を受けさせられました。この検査は刑事犯が受けるもので、もとのよい衣服があっという間にぼろぼろの古着に換えさせられました。大白ビルの食事はきわめて悪く(トウモロコシの餅とトウモロコシ粉のお粥)、野菜スープは鍋を濯いだ水のように薄いものでした。このような状況の中で、私達は毎日朝から晩まで手作業をさせられ、やり直す仕事がある時は、もっと遅くなりました。長い時間電気板を敷いた冷たい床に座っていたため、手、足は赤く腫れ痛くなり、さらにトイレに行くのが頻繁になりましたが、何度取調べられても依然として全く動揺しませんでした。そこで2001年の初め、私は阿家峰看守所に護送され、間もなく、阿家峰看守所の劉所長から不法な判決を言い渡されました。この不公正な判決に対して、私はかつて上申書を提出したことがあり、これに対して彼らは表面では承諾しましたが、裏では密かにもっと厳しい迫害を加えました。例えば、劉所長は私の足が腫れてしゃがむことができないのをよく知っていながら、戒めの時氷のように冷たい雪の上に座らせ、訓話が終わった後、足の状態は更にひどくなり、数人がかりで引っ張ってようやく立ち上がることができるほどでした。断食している間、凶悪な警官に無理やり鼻から食べ物を入れられました。邪悪な王隊長は、足の痛みを良く知っているにもかかわらず高い山の上に糞尿を運ぶように命令し、刑事犯には一杯に入れるようにと、そうしなければ彼女達を罰すると告げました。

 阿家峰にいる間、凶悪な警官はいつも口実を作っては、私や他の大法弟子に迫害を加えました。ある日の夕方5時になり、空からは雪花が舞っており、謝隊長は作業を終えるようにと私達に伝えました。しかし、事務室から出てきた王隊長は私たちが作業を終えるのを見て大声で“誰があんた達に作業を終っていいと言った?”と叱りつけました。もう時間になったと言うと、 “私が終わりと言わない限り駄目だ。すぐにもう一回運べ。”と言ったのです。そこで仕方なく向こうの山の斜面に戻りましたが、これは、私達に対する邪悪の迫害だと理解し、山の上に集まって降りませんでした。

 夕方6時近くになると、邪悪は終わるすべがないと見て、私達に謝りました。1月15日の夜も私達は依然として法の勉強と煉功を堅持しました。凶悪な警官呉隊長は夜間パトロールをする時、私達が煉功しているのを見て、大声で早く眠るように命令しましたが、びくともしないのを見て、ドアを壊し靴を履いたまま飛び込んできて、殴ったり蹴ったりしました。それは、2時間ほど続きましたが、依然として座禅をして動きませんでした。この時、別の部屋から「人を殴ってはならない、法輪大法は素晴らしい!」と叫ぶ声が聞こえてきました。この時、凶悪な警官が私に「あんたは何が善か知っているか?」と聞きました。私は「善い人は常に慈悲心があり、責めず憎まず、苦を楽とする。」と答えました。最後に邪悪は退却し、私達はついに法の勉強と煉功する環境を勝ち取ることが出来ました。

 環境は正されましたが、私達はここが私達の修煉場所ではないことを十分に知っていました。そこで、また上申書を書き無罪で釈放することを求めました。私達の合理的な要求に対して、邪悪も対策を探しました。まず遼陽からユダを呼び寄せて、私達を動揺させようと企みましたが、思い通りにはいきませんでした。最後に凶悪な警官達は邪悪な手を使って、私達の一部の人を馬三家教養院に送りました。それは3月23日の昼ごろで、突然私達を指名して荷物を片付けさせ、速やかに1台の大型バスに乗せ、馬三家に送りました。

 馬三家にいる間、警官はユダを利用して私達を洗脳させました。毎朝早起きして手作業をさせられ、もし屈服しなければ毎日、側でよからぬ話をします。彼女達の下品な嘘を吹き込まれ、私たちは煩わしく心穏やかではありませんでした。初めは自分で法を師として反駁することができましたが、時間が長くなると身体の痛みが加わり、私は話さないとはっきり表明し、眠ること要求しましたが、室長は私のベッドの上下両方からユダにいわゆる転向工作を続けさせると言ったのです。このように心身ともに疲れきって、頭がはっきりしていない状態で、私は邪悪の罠に陥り、三書を書き、大法弟子としてやってはならない事をしてしまいました。その後、私の身体の状態はどんどん悪化し、起きることも服を着ることもできなくなり、全部他人に世話をしてもらうようになりました。私のこの状態を負担に感じた馬三家教養院は、重病のための保釈治療の手続きをしました。4月末、娘の介護の下で私は馬三家教養院を離れ、家に帰りました。

 家に帰ってからの2年間、私は全身の関節の腫れと痛みで、日常生活のことを自力で処理することが出来ませんでした。それにもかかわらず、西泊子社区と警官はいつも家に来てはかき乱し、社区の楊主任も何度も来て、不法に師父の法像や大法の本を探し出しては持って行きました。特に「敏感な日」になると、彼女らが来る回数が多くなり、私が西泊子から引越しした時でさえ、彼女達はまた隣近所に私の行方を尋ね回ったのでした。

 私が迫害を受けた経験は、多くの迫害された大法弟子の中のほんの氷山の一角に過ぎません。これを書いた目的は、より多くの人々が、江氏集団が罪のない庶民に対して犯した大罪をはっきりと認識し、嘘とペテンで騙された人々が目覚め、共に邪悪を制止し、善を保護し、世の中の正義を守り続け、次の世代に素晴らしい未来を残す為なのです!

姚佐華さんが迫害により受傷した部位の写真



 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/28/78180.html