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大法弟子何少懐さんは四川射洪県留置場で迫害され死亡した(写真)

 【明慧ネット2004年6月9日】何少懐さんは53歳の男性で、生前四川省射洪県金華鎮興隆街セメント工場総合ビルの3ユニット4階1号に住んでいた。2003年9月15日射洪県留置場で迫害されて死亡した。

 2003年7月四川省射洪県金華派出所の悪徳警察官である範登朝と楊周は、朝8時半何少懐の家を家宅捜査した。家宅捜査の理由は、ある学習者が捕まった際、真相資料は彼のところにあった、と言ったことによるものだった。悪徳な警察官等は彼の家で大法の書籍と資料を探し出した。その時の“物品の取り押さえ明細書(写真)”を参考として添付します。そして当日、警察官等は何少懐夫婦を射洪留置場に送り込んだ。何少懐さん夫妻は二人暮らしで、息子と娘は外でアルバイトしている。留置されてから半月後、何少懐の奥さんは1千元ゆすられた後、彼より先に釈放された。彼女は離れる前に何少懐と挨拶を交わしたが、その後再び彼に会うことはできなかった。


何少懐さんが不法に家財を差し押さえられた物品の明細書


 何少懐さんが死亡された病院の証明書



 何少懐の奥さんは帰ってきた後、彼に服や掛け布団それにお金を渡そうと、射洪留置場に3〜4回行ったが、警察官はまったく面会を許さなかった。彼女は2003年9月9日また彼にお金を渡そうと留置場に行った時、医療関係者の李武軍に会い何少懐の情況を聞いた。すると彼は昨日何さんと話しをしたが、精神状態は悪くなかったと言った。2003年9月15日朝8時の点呼の時、警察官は何少懐さんが起きてこないのに気付き、彼のところに行くと、彼は:“私は気分悪い。”と言った。それでも警察官二人は彼を支えて立ち上がらせ歩かせようとしたが、入り口の方に歩き始めると同時に彼は倒れてしまった。それから警察官は彼を人民病院に送ったが、病院に着く前に彼は亡くなってしまった。その後警察官はやっと彼女に見に行くように知らせた。しかし結局警察官は彼女を直接葬儀場に連れて行った。何少懐さんの奥さんは警察官にここはどこかと聞いた。すると彼らは:“何少懐さんは既に死んだ、彼を見に行きなさい。死体を検査して原因を明らかにするように手配した。”とやっと本当のことを言った。死体検査する時無残にも苦しめられて亡くなったことを発見した。朝死んだばかりなのに、午後の死体検査の際は少しの血の痕もなく、胃の中には1粒の米もなかった。法医学者は:“この人は10日間ぐらいなにも食べていない、それに大小便もない。”と言った。これらの事実を覆い隠すため、県委員会は調査グループを作って死因を“調査”し、1ヶ月後に回答すると言った。結局3ヶ月後になって県委員会は:“何少懐は病気を抱えながら治療をしなかったため、自分で死亡の結果をもたらした。”と弁明し、愚かにも彼らは責任を逃れようと企んだ。ここで何少懐が亡くなる当日に行った“人民病院の病状の証明書(写真)”を参考として添付します。

 何少懐は1997年3月に法を得た。あの頃は毎日集団で法を学び煉功したが、何少懐は一度も欠席したことがない。何少懐は法を得る前、体が弱く病気がちだったが、法を得てから彼の体はよくなり、毎日10時間あまり働いても(何少懐はセメント加工の商売をしていた)疲れを感じなかった。 (7.20後、大法は邪悪な迫害に遭っている。江・羅をはじめとするグループは“天安門焼身自殺”を捏造して、多くの衆生を騙した。何少懐は大法を学んで大いに利益を受けたため、大法をとても堅く信じていて、絶えず世間の人に真相をはっきりと説明した。

 何少懐は以前二度に亘って射洪留置場に拘禁された。初めは2001年の春節で、悪徳警察は何少懐さんを金華派出所に叫び出した。他の人はすべて家にいて新年を祝っていたが、何少懐さんは小売店でワンタンや水餃子の皮を作っていた。悪徳な警察は3日間続けて何少懐さんを呼び出して真相資料の事を聞きだそうとしたが、彼はすべて防ぎ止めた。二回目は悪徳警察官が彼の家を家宅捜査した後だった。彼等は何ら“証拠”も見付けることができなかったので、彼を強制的に射洪留置場に送り込み、15日間拘留した。最終的には21日間監禁され、7千数元ゆすられてやっと出てきた。

 四川省遂寧射洪県公安局金華派出所の名簿:

 王智斌 所長 13808269276 

 範登朝 13882585780

 謝明智 人民警察 13684439185

 徐貴権 人民警察 13882525917

 楊周 人民警察 13038227588

 陳華 人民警察 13084345553

 射洪県政治・法律委員会 連絡方法: 0825-6624459


 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/9/76682.html