日本明慧


如何にメディアの仕事をより良く成すか

 トロント大法弟子筆

 【明慧ネット2004年6月26日】数年前、大法弟子達はメディア会社を成立した。邪悪が他のメディアをコントロールし、大法の迫害が暴露されるのを抑制したので、真実を公正に伝える為に大法弟子が、メディアの会社を成立する事が必要となった。大法の真相を伝えるのにこの会社は重要な役割を果たした。

 法を正すことの経過と共に私たちは迫害を単に拒否することから、次第に意味深いこの世の人々を救うことへと移って行った。ではこのメディアは更に深く真相を伝え、大規模に衆生を救う為に、どうすればより良い仕事が出来るか?

 過去二年間メディアの仕事に携わったことは、あらゆる社会階層の人々と接触することを可能にした。各々の階層において、人は何かを追求し、気にし、執着している。これらの全ては長い歴史を通じて生じた、様々な歪曲した観念によって汚染されている。人々は自分の切なる望みにおいて奮闘し、苦しみ、求めており、自分の利益と無関係と思われることを気にする精力は滅多にない。

 メディアの仕事をしている大法弟子は、自分の仕事もあり、忙しいのが常である。法の勉強や煉功もしなければならず、常人社会で人が何を考え、何に執着しているのか理解する暇がなく、彼らの執着の角度から真相を伝えることなどは更にしない。結果として常人社会の問題に対しては、我々のメディアは単なるニュースの報道をするに留まっている。大法の活動や情報を加えることによって、常人が法輪大法を理解することが出来ることを望む。プロの報道関係者が我々の仕事を率直に評価して指摘するには、我々は仕事を単に機械的に行っており、単に出来上がった製品を配達しているだけであり、新聞の空白を埋めているだけである。メディアの仕事に携わって来た我々は、彼らが言う事が事実であることをよく知っている。

 これは一つの問題を暴露した: 大法弟子のメディアは常人社会との接触を失った。多分多くの同修は私に同意しないだろう。誰だって世界中のニュースを報道しているのじゃないか? これは単に表面上メディアの外形をとっていることを意味する。しかし我々のメディアは、世界で発生している大事件を見るよう人を引導するといったような、事件の視角を問うことをしない。人々が関心を持つ事件を利用して如何に我々は、正しい観念で日々僅かでも人間を潤して行くことが出来るか。

 大陸のある同修が手紙で指摘した: もしも我々が人間的観念を突破しないなら、我々の真相を伝える仕事は良い効果をもたらすことはない。人々は言うかもしれない、「政治闘争はいつも残酷である。文革の6・4事件では多くが死んだ。あなた達の苦しみなど取るに足りない事じゃないか?」彼は法輪功の事情を真剣にとることはない。うまく行って、彼は司法部の質の悪さや不法的事件の存在を承認するだけである。そして付け加えるかも知れない、「中国はこの方面では大きく改善された。我々は発展を見るべきである」。彼は再び自分の思いに浸る。従って真相を伝えることは、強い心と忍耐、そして「手術」を行うような心遣いを要する。そうすることによって初めて、我々はこのような人を救うことが出来るだろう。それは長期に渡る努力を要する重い責任である。

 人の観念を考慮することは、実に重要である。"論語" (転法輪)の中で師父は "観念" ということを三度述べた。修煉者は観念を破らなければ真理を見ることが出来ない。では、常人はどうであろうか? 現在において、彼らの一切の事を判断する観念は変貌してしまった。大法の迫害の真相を単に説明するだけでは明らかに十分ではない。彼らが追求している私利や、関心のある損得の角度から真相を伝えることだけが可能である。彼らが関心を持つ問題の一つ一つにおいて、我々は彼らが正しい方向へ向かうよう導くことが出来る。我々が人々の善の心を正念を目覚めさせるよう努力する瞬間毎に、彼らは大法に近づいて来る。いつの日か我々が大法の真相を話す時、彼らは理解するようになる — それが我々の永久の慈悲であり、それがついに人間世界に新しい生命を養育するのである。

 メディアの問題に戻ると、良いメディアは巨大な影響を与えることが出来る。毎回メディアの見出しが世界中の大事件を報道する。そこには、あらゆる階層の人が関心を持つものがある。「万古の出来事は全て大法の為に起きた」というのが事実ではないか? サアスについての報道で、我々は流言の危害について、又中国権力者達は如何に人民の生命を無視したか、を伝える努力をした。香港の23ヶ条についての報道では、我々は独裁と専制とは何かを、又大衆の力とはどんなものかを人々に理解させるよう引導した。これらは全て我々と関係する問題であるが、我々と無関係と思われることについては、我々は滅多に関心を示したり人の正念を引導しようとしない。しかしこれらこそ、多くの人が関心を持つ事件なのである。彼らの観念はこれらの事件から、一つ一つ形成される。彼らの本性は複雑な汚れた迷いの中に失われる。世界最大のメディアを持つ、法を正す時期の大法弟子として、我々は何をするべきであるか?

 ある常人は新聞の論評で言ったことがある、「ニューヨークタイムズ紙の経済とビジネス部は110人以上の記者と編集者が居り、各人は特定の区域と業界を担当し、定期的にフォローしている。平時は彼らは主に情報の収集と調査研究をする。一旦ある業種或いは企業がニュースになると、彼らは一流の原稿を提出しなければならない。ある編集者が言った、『このような処で働くなら、例え短い情報を書くにも専門家でなければならない』。私が米国駐在中、《リーダーズダイジェスト》の編集部の編集者を訪問したことがある。関連編集者が私に言ったのは、他の新聞の真実な報道を採用する場合も、彼ら自身、何度も真実を再確認する必要があるということであった。編集者は原作者と連絡を取り、或いは文章の中の関連者と連絡を取って、事実の確認を行ってから採用される。学ぶべき事は、米国メディアはある相当厳格な自己審査制度があり、特に重大なニュースに対し、如何に報道するか、何時発表するか、どれだけのスペースを用いるか等々、各メディアは各自の報道風格と理念に基づき綿密な計画を立てる。このような自己審査は既にこの業界の規格範囲中の不可欠な重要なものとなった」。

 比較的に、我々のメディアはこの方面でかなり遅れをとっている。表面的には、我々は解決すべき無限の問題を抱えている。あまりに多くの問題に対した時、我々はどうしようもないと感じる。専門家があまり居ない、専業記者を雇うお金もない、時間もない、等々。では、もしもメディアの仕事に携わる同修が皆、水準を高めるよう努力すれば、情況は変るのではないだろうか?

 済南にての説法にて師父は、我々が常人の中において可能な限り、知識を豊富にする必要を説いた。大法弟子の中には、各種の人才が居る。政治研究、経済、工業、商業、歴史研究、等々。一人一人が皆自分をメディアの一編集者、記者、フリーランサーと見做し、自分の業界の中で発生する一切の大事に関心を持ち、速に関連事件と結び付けて関連人物をインタービューし、それを人間の正しい理を講ずるような方法で報道出来ないだろうか?

 例を挙げると、貧困者と失業者を自立の道へ戻れるよう助ける社会組織があり、彼らから援助を受けた一万余り中、自分の事業を成功させた五人の表彰式をした。一般のメディアはこれをどのように報道するか?これは良い事である、若い人の自立を奨励する、貧困も努力によって変えることが出来る。これは非常に正しく聞こえるが、実はこれは人類の変異した観念そのものである。師父の経文《富あって徳あり》の中で、君、臣、富貴の本質は徳の積み上げであることが説明された。努力を奨励するのは実は、人の敗退を加速する。もしも我々がこの種の報道角度の変化を意識出来ないなら、我々のメディアが報道したものは人の観念を変えないのみか、返って人の堕落を促進する。大法弟子の言行は社会に非常に大きな影響を与える。実際衆生を救う為には、まず我々自身の観念が正しくなければならない。では我々はどのように報道すれば良いのだろうか? 例えば、我々は素材を深く掘って見る。その組織はどれだけ投資したか、何人援助したか、何人成功したか、成功した人達はどのような特質を持つか。それから成功した人をインタビューして、成功の心理的素質は何かについて話す。実は成功する者は必ず宇宙の理に適合する部分があり、これこそ我々が探求するべきものである。これを通して、事件の全面的な意味深い報道が人々に正念を伝える事が出来る。外因は追求によるものではなく、生得による。成功の本質はやはり我々の心にあり、真善忍に合う特質を持つ人はより容易く成功する。

 もう一例として、イラクにおける韓国人の人質の斬首は、世界を揺るがす事件であった。人々は怒りと悲観の持って行き場がなく、どうしようもないと感じる。実はこの時、もしも歴史をよく研究した弟子が居れば、歴史と総合的に結び付けて記事を書くことが出来る。正邪間の交戦あり、正義の力は邪悪の挑戦を避ける事は出来ないが、結局正は必ず邪を滅ぼすので、悪人は良い結果を得ることは出来ず、人々が正義を守る為に勇気と決心を持つよう、激励出来る。

 大法が我々に与えた智慧と威力をいかに運用すべきかは、法を正す時期の弟子の一人一人が考えるべき問題である。モントリオール法会にて師父は指摘した、"大法弟子が法を証明し、修煉方式を実践する中で、あなた方はまだ不足があります"。 我々が行った多くのことは、表面の現れに過ぎず、持つべき気勢と影響力にまだ達していないと、私は理解している。大法弟子達は常人社会の多方面において智と悟が呼び覚まされた、熟練者や学者である。もしも同修が運営するメディアを通して自分の専門を発揮すれば、メディアの影響は本質的な突破となり、衆生を救う速度が法を正す速度に追い付くことが出来る。

 以上は個人的認識である。不適当な処があれば訂正して戴きたい。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/6/26/77979.html