日本明慧


根本的に旧勢力のすべてを認ない
—— 病業の魔難の中にいる同修のために書く
 

 文/河北の大法弟子

 【明慧ネット2004年8月14日】近ごろ同修の交流文の中に、旧勢力の邪悪な黒い手にずっと妨害や迫害されたため、重い病業が現れ更に生命を失った文章がある。私はこの事にとても心が痛んでいる。私達の地区にもよくこのような事例があり、私と私達の資料点(資料を作るところ)の同修もつい最近深刻に邪魔された。しかししっかりとした正念と正しい行いを以って、黒い手の妨害を突き破った。私は私達の情況を書き出して、病業から抜けだせない同修に注意してもらうよう望んでいる。そして共に研究し合っていきたので、適当ではない箇所があれば、指摘してください。

 私達の資料点は人手が少なく、作業量は大きい。しかし私達は毎日法を学び、正念を発してたくさんの仕事を担当し、すべて整然として乱れがないように対処していた。だから2年来私達はずっと比較的に順調だった。時に多少の邪魔や摩擦はあったが、すべて不足を探し当て、再び正しく戻ることができた。

 しかし先月(7月)の初めに、突然私達資料点のほとんど人が病業の妨害を受けた。その上勢いが凄まじかった。ある同修は歯が痛くて、ひどく腫れた。もう一人はひどい風邪を引いたように全身が痛くて、鼻汁と涙が止まらず流れた。更にもう一人は吐いたり、下痢したりして、腰をまっすぐ伸ばすことができないほどの腹痛に襲われた。私達の資料点全体に対しての妨害はとても突然だった。私は皆に幾ら苦しんでも法を学ぶことと、多く正念を発することを堅持するように言い聞かせた。そして私達は最近邪悪に乗じられる隙が何かあったのかを探した。

 そして私達は交流を通して、不足を見つけた。それは私達が最近一緒に法を学び、話し合うことが少なくなっていることだった。少なくとも、ある同修の意見に対して、異なる意見がある時、直ちに言い出さず、心の中に閉じこめてしまうことがあった。また別の同修は意見について話し合わないため多少の誤解が生じ、隔たりをもたらした。これらのことで旧勢力に隙に乗じられた。皆は更にそれぞれ内に向かって、自分の執着していることを探し出すことによって、体は急速に回復した。しかし、2日も過ぎていないうちに、私の体に対する妨害がまた表れてきた。

 ある日の晩、私がインターネットを利用していると、突然1筋の薄暗くて不気味な冷気が私の体にしっかり巻き付いたように感じた。私は全身に寒気を感じたので、すぐに仕事をやり終えるようにした。そして正点になり、正念を発した。正念を発する時にすこしよくなったが、しばらくすると、また全身身震いするほど寒く感じた。頭痛がして、のどは痛くて、全身はたまらなくだるかった。それでも私は、“私は大法の弟子で、決して黒い手に制御されてはいけない、断固としてそれに打ち勝とう。”と思っていた。朝平常通り起きて煉功すると、全然力が入らなかったが、辛抱して煉功した。そして平常通り正点に正念を発し、法を学んで、仕事をした。

 翌日の午後少しよくなりだしたので、私は過ぎ去ったと思っていた。意外にも一日過ぎるとまた始まった。今度は前回より更にひどく、口で大きな息をして、ご飯も食べることができなくなった。全身が痛くて、熱が出たり、寒気を感じたりした。頭がぼんやりして意識がもうろうとしていた。私は正点に正念を発することを堅持していたが、あまりにも気分が悪くて、正念はそんなに強くならなかった。

 更に一日過ぎてまた少しよくなった。私は何とか突破出来たと思っていた。しかし、晩になると予想に反してまた始まった。こんな状態が10数日間続き、その度に前回よりひどい目に遭った。その後、頭が割れるほど痛く感じ、気分が悪くて全身だるくなり、横たわることも座る事も出来なかった。口の中は大きな泡でいっぱいになり、歯も我慢できないほど痛くて、咳、吐血等で一晩中眠ることができなかった。私は正念を発していたが、強くなかったため、すでに良い働きができなかった。その時、私は本当に我慢できなければ、早く死んだほうがいいと考えたので、しまったと思った。この考えが出ると、私はすぐ間違ったことを意識した。私は大法の弟子で、どれだけの衆生が私達の救い、済度を必要としているのか。これは私達の歴史的使命である!先生は私達を救うために、どれだけの苦難に耐えたのだろうか。私はこのようなほんの少しの難も乗り越えることができないのか?私はなんと利己的なのだろうか。

 このように私は落ち着いて、すべてのことをじっくり考え始めた。ふだん仕事あるいは体の上の妨害に対して、私は自分の正念がとても強いと思っていた。時にはウェブサイトへ発信する時、邪悪は工夫して妨害し、あちこち故障させたり、欠点を現れさせたりした。正念を発してから、すべて順調に解決することができた。体の上で一部の妨害があったとしても、正念の中で早く過ぎることができた。今度のような事は初めてだった。私自らきっと漏れるところがあったと意識した。自分がよく行っていないから、邪悪に隙に乗じられたのだ。私の漏れるところはどこにあるのか? 

 その日に私は我慢して起き上がって法を学んだ。先生の経文《2004年シカゴ法会での説法》を開いて静かに読んだ。先生の1段の話が私を引きつけて、私は何回も繰り返し読んだ。先生は「しかし、旧勢力はなんといっても、やりたいことをやりました。大法弟子は今まで以上に良く行い、衆生を救い済度する中で自らを良く修めるべきです。修煉の中で魔難に遭ったら、自分自身を修め、自分自身を見るべきです。これは旧勢力が按配した魔難を認め、それらが按配した魔難の中でいかに良く行うかのことではなく、こういうことではありません。私たちは旧勢力そのものが現れたこと、それらが按配した全てまで否定しており、旧勢力の存在自体を認めていないのです。私たちは根本から旧勢力の全てを否定しています。旧勢力を否定し排除する中で皆さんが行った全てこそ、威徳あるものです。それらが作った魔難の中で修煉するのではなく、それらを認めない中で自らの道を正しく歩むのであって、旧勢力そのものによってもたらされた魔難の現れを消滅することさえ認めないのです。(拍手) この角度から見れば、私たちが直面しているのは旧勢力を全般的に否定するということです。旧勢力の瀕死のあがきを私と大法弟子はまったく認めないのです。」

 先生のこの段の説法を読んで、私の心はぱっと開かれました。先生は、私達に旧勢力の瀕死のあがきさえもまったく認めさせないのだ。しかし私はずっと迫害の中でそれに打ち勝つことが、私に対する妨害を取り除くことだと考えていた。私はそれらのもたらした魔難の中で修煉したのではないか?これは知らないうちに旧勢力の存在を承認したのではないか?旧勢力を存在させた以上あなたを迫害することも邪魔することもできる。何故ならあなたがそれを承認したからだ。

 ここまで悟ると、私は正念を発し始めた。私は断固として旧勢力の黒い手と不法な神が私に対して行うすべての迫害を承認しない。たとえ歴史の上で何の約束があったとしても、私はすべて承認しない。私は大法の弟子であり、あなた達は私を試す資格がない。私はただ先生の示した道だけを歩く。正念を発し終わると、私は何日間もなかった楽な感じがあった。そして歯は急速に痛くなくなった。

 それから私は自分を探すことを始めた。私はまだ多くの執着心が存在していることに気づいた。仕事の中においても独断的でうぬぼれており、どんな事もすべて自分が言った通りに行わせた。私は先生のおっしゃったように、他人の意見を聞かない。他人に言われるとすぐかっとする人だ。先生の説法を学んだ後、私はこのような人間の中で身につけた1番悪い欠点をすっかり直すことを知って、同修達と研究し合った。ところが本当に事に出会うと表面の上からただ自分を抑えており、実は心の中では決して納得できていなかった。心の中にある本当の執着を放棄しておらず、修煉者の穏やかさと慈悲の心理状態はない。また自分のために口実を探して、自分はとてもよくなったと感じているが、これは一体どういうことなのか。先生はすべてはっきり説法したのに、自分はまだうまく行うことができない、これはどれだけ大きな漏れなのだろう。自分の心理状態がよくないため、資料点全体がうまく協調できず、旧勢力の黒い手に迫害する最大の口実をもたらした。私は、今回私達の資料点の同修に対する妨害の、最大の根源は私のところにあると深く認識した。皆さんにもそれぞれ漏れるところがあるが、もし私の執着がそんなに強くなければ、皆さんと共にうまく協調し合えた。またよく法を学び、事にぶつかっても、皆で穏やかに解決することができ、今回の様な大きな抜け穴をもたらすことはありえなかった。

 認識した後、私の体は当日にはもう苦しくなかった。翌日口の中の泡はすべて消えてご飯も食べることができて、急速に正常な状態を回復した。他の同修も内に向かって探し皆よくなった。私達の資料点はすべて正常な状態を回復した。今私達は皆最大の努力を尽くして、3つの事を更によく行っている。

 私がこの事を言い出したのは、まだ病業の魔難の中にいる同修に教えたいからです。肝心要な時の私達の一念はとても重要で、魔難が幾ら大きくても法を学ばなければならない。「法はすべての執着と邪悪そして虚言を破ることができ、正念を固めることができるのである。」(《妨害を排除せよ》)私達は先生のおっしゃった通りに行わなければならない。旧勢力の瀕死のあがきの現れさえも認めない。

 今法を正す広大な勢いは終わりに近づいている。私達は共に手を携えさせて、3つの事をしっかりと行って、更に多くの衆生を救って、いっしょに光り輝く明日を迎えましょう。

 同修と先生《洪吟》の中の詩で互いに励まし合う:

            執着を取り除く

            修煉のことと言えるが
            心の中の執着を取り除かなければならない
            捨てられるのは自己ではなくて
            皆迷いのなかの愚かである

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/8/14/81707.html