日本明慧


法を学ぶことに影響する障害から話そう

 文/大陸大法弟子

 【明慧ネット2004年8月7日】交流中に法をよく学んでいれば、法の上から次元が高まると思うと言及したある同修がいた。しかし私はいくら法を学んでもいつも何も悟らず、どんな新しい理解も生まれてこないと感じていた。それでも私は法を学び続けた。特に《転法輪》を学ぶ時、長期にわたってこんな状態が続き、私は長い間なにが原因か分らず悩んでいた。だから修煉を通して、法を学ぶ過程の中でいくつか障害の要素を書き出し、同修の参考にしてもらいたい。不適切なところがあればご指摘をお願いします。

 私は法を学び始めた時、法と言うものを自覚せずに法を理論の文章として学んでいた。常人の文章はどこが思想のポイントとなるのか、段落の要点はどこか、テーマに合っているかどうか、そして注意点などが書かれている。私は法を学ぶ時、この思想で法を考えていた。例えば:この段落の言っていることは重みがあるが、あの段落は平凡である。あるいはこの見出しの言う論理は厳格だが、その見出しはどのようかと考える。

 ある時に教科書の中の知識を絶対の真理として、法が理解出来ない。例えば:教科書の中での分子、原子の説明と、法の中で解説されている分子、原子が理解できないようだ。教科書の中で‘光年’は長さの単位であるが、‘邪法を練る’(《転法輪》)の段落の中では時間の単位であるようだ。これらは常人の教科書の知識を学ぶ過程の中で形成された思想だが、もしそれで法を考えると、法を学ぶことに深刻な影響を受ける。

 私は法を学ぶことを始めた時、いつも内包を求めて、本を読む時は表面の文字を詮索していた。ある話、ある言葉、ある字にどんな内包があるかと良く考えていた。しかしこれまで何にも考え出してこなかった。ある学法の時、ある段落あるいはある話を学んで、少しの悟りがあって、内包を見たと思った。そしてその内包に執着し、忘れることを怖がって、しっかりと覚えていた。だからこの段落を再び学ぶ時、すぐに前回悟ったことを思い出し、いつまでも執着していた。そのためこのようにたくさん学んでも、この話についてはそれ以後どんな新しい理解もでてこなかった。内包を求めて、内包に執着したため、法を学ぶことに深刻に影響した。

 そして時には執着を抱いて法を学んでいて、自分に合う執着の話を探す事が好きだ。どの話が自分の執着をつけるのかと、さっと探し過ぎていた:ある時には執着を探すことを覆い隠して、法を学ぶ時、執着のために根拠を探していた。例えば、明らかに自分が食いしん坊であることを認めたくないので、《転法輪》を読む時“執着心さえなければ空腹を満たすため、何を食べても構わない、ということを知っていました。”というこの話をしっかり覚える。そして同修の間で話をしていて、誰かがこの執着に言及すれば、すぐにこの話を言い出していた。ある時には同修の間の観点が一致しない場合、法を学ぶ時、無意識にどの話が相手を説得出来るかと探していた。話が見つかると、相手を説得する根拠が出来たので、この話をしっかり覚え、機会があれば彼(彼女)に言うつもりだ。またある時には同修の執着していることあるいは不足していることを見て、そのことを言っても相手が受け入れない場合、自分の心の中ではその事を放下することができない。そしてもし法を学ぶ時、その事に関連している話を見付けると、無意識に思っている:この話はまさに彼(彼女)に言おう!法を学ぶ時これらの強烈な執着を持っていれば、法を学ぶことに深刻な影響をうけている。

 ある法を学ぶ時、常人の観念で法を考えている。例えば:この見出しはこの講の中に置くべきであるのに、どうしてあの講の中に置いたのか?あるいは、この講の中にあるいくつかの見出しは、このような順序に按配するべきであり、どうしてそのように安配するのか?あるいは‘壁穀、気を盗むこと、気を探ること、祝由科’などの見出しを学んでいる時、自分と関係が大きくないと感じた。私は壁穀しないし、気を盗むこともなく、気も探らず、祝由科も使用しない。だから自分は常人の観念でこれらの見出しが重要ではないと思って、‘心性を向上させる’の見出しのほうが重要だと思った。あるいは法を学んでいる時、どの段落でも心性の修煉を説いていたら、重要だと思っていた。そしてどの段落でも功能の事を言ったり、例を挙げているのを見ると、心性の修煉と関係ないと思って、さっと目を通していた。あるいは‘無意識に邪法を練る’の段落を見て、これは気功を修煉する人に言っているのだ。私は大法を修煉する人であって、気功を修煉していないので、私と関係が大きくないと思った。あるいは学法の時に、この段落は理解できたので、内包があると思っている。しかしあの段落は理解できないので、例を挙げているだけで、内包がないと思っていた。あるいはこの段落は自分が受け入れることができたので、なるほどそのとおりだと思っている。またある段落が自分の観点と一致しない場合、もっと良く理解しようとしない。多くの場合は無意識的に常人の観念で法を考えている。これは思想の中あるいは心の中に潜在していて、気付きにくい。しかしこれは法を学ぶことに対して深刻な影響を及ぼしている。

 法を学ぶ時に、自分を修煉の中に置かないのだ。《転法輪》の331ページに「わたしが話したこれらのことは、すべて皆さんが高い次元をめざして修煉することを指導するためのもので」の話がある。しかしいつも法を二つの部分に分けて学んでいる。一つの部分は自分の修煉に対してであり、もう一つの部分は自分の修煉に対してではないと思っていた。例えば、法を学ぶ時にこの段落は自分の不足に対して言っているが、あの段落はステーションの責任者に言っていると思った。説法の中で師父は旧勢力に言及して、他人を変えたいが、自分は変りたくないので、師父は旧勢力を言うのだと感じている。説法の中で師父は話されました、× × 党はどんなに大きな悪事をしても人民にあやまらず、かえって自分が“終始一貫して正しい”と言っている。私は師父が× × 党の事を言っていると感じたが、言った事は本当に正しいのだ。説法の中で師父は「多くの学習者が他人からの指摘を受け入れられないのです。」と話されました。この話は師父が責任者、ステーションの学習者に対していると思っていた。実は冷静に考えてみると、対立があって、他人が間違いだと思う時、同修あるいは他人と言い争って止めず、対峙しても譲らない。そして自分の観点や方案、方法を堅持し、同修あるいは他人の批判の意見を受け入れない時、それは“自分”を守っているのではないか?法に基づいて自分を見ないのではないか?自分の問題を探さないのではないか?法を師として自分を修煉していないのではないのでしょうか?心の中に× × 党と同じ様に“終始一貫して正しい”が埋蔵しているのではないか?

 法の中で言う事はすべて大法弟子の修煉を指導し、高めているのだ。自分を高めることと関係のない話はないのだ。説法の中で師父は話されました。修煉して無くすべきものやいろいろな不足が自分の体に存在している。あるものは行為の中で、あるものは思想の中で、またあるものは認識の上で体現するが、あるものは深く埋もれて気付きにくいのだ。自分は修煉者だと思わず、自分を修煉の中に置くことができないのだ。法の中でどの段落どの話が自分に対しているのか、という常人の観念で法を学ぶと影響があって、修煉者は法の上で高まっていくことに深刻な障害をうけるのだ。

 法を学ぶことに邪魔、障害、影響する要素が多い、例えば:疲労、だるくて眠気を催すこと、想像、雑念などの形式は明らかに感じることができる。そしてこれらを排除するため、正念で取り除き、主意識を強化すれば、しばらくはこの状態が無くなるかもしれない。しかし常人の観念は、法を学ぶことに対してもたらした障害を気付きにくくする。本当に静かに法を学べば、法はすべての障害、執着、観念などを取り除くことができるのだ。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/8/7/81246.html