日本明慧


求める心は修煉に対して大きな障害である

 文/一言(米国)

 【明慧ネット2004年9月12日】求める心は人間社会の至る所に存在している。金銭、功能、名誉を求めることにより、憑き物を招いて自分の貴重なものを失ってしまうことになりかねない。修煉中の魔難と難関は常人の求める心によるものも少なくない。

 迫害が始まったばかりの頃、個人の失得や円満成就を気にしすぎたので、旧勢力はこれを利用して迫害に加担した。一部の学習者は求める心を持ったまま北京へ陳情に行って、心の不純により、酷い迫害を受けた。この状況下になっても、まだうちに向けて探すことを忘れて、逆に師父と大法に怨念を持つことになり、結局大法を裏切って邪悪の手先になってしまうケースもある。このような求める心によってもたらされた悲惨な結果を、我々は深い教訓として心に受け止めるべきである。

 一時、我々は中国のあの総理や国連人権委員会に過分の期待を寄せて、常人の手を借りて迫害を制止しようと求めていた。法を正すことが師父の法力と大法弟子の正しい念、正しい行いによるもので、世人があくまで我々の救い済度の対象であることは忘れがちだった。大陸の残酷な迫害の環境にいる多くの学習者は、常人の心で迫害のことを考えて、早く迫害を終わらせて惨めな生活から解放してもらいたいと思っている。常人の立場から見れば、このような考え方は当然のことであるが、修煉者に対する要求は、常人の理を超えたものである。早く終わらせることを求める心が強すぎると、自分が大法弟子であることを忘れてしまうかもしれない。世人を救い済度することこそ我々の本願だったのに、早く迫害を終わらせることを一番重要なこととして考えてしまえば、旧勢力の黒い手に迫害の理由を与えることになる。

 この2年来、各地で僅かな学習者は法理に背く勝手な行動を起こし、周囲の学習者と世人に大きな悪影響を与えた。もちろん裏側に悪人の陰謀があるが、なぜ悪人に操られたか、その原因を考えてみれば、やはり法の学びが足りないことや、常人の心が重すぎる以外に、もう一つ重要な原因は求める心があるからである。

 求める心は真相説明と世人を救い済度することに対しても大きな障害である。真相説明が世人のためであり、真相を分かった世人は始めて良い未来が得られる。真相を説明する時、完全に相手のために無私の心を持って大法の素晴らしさと迫害の真相を訴えることができれば、はじめてよい効果が得られる。

 師父は無条件に我々を救い済度し、たくさん貴重なものを我々に与えてくれたことに何の報いも求めていない。師父の言動は我々の参考になるべきである。しかも世人を救い済度することは、大法弟子自身の責務であり、無条件に純粋の善心を持って行うべきである。しかし、一部の学習者は真相を説明するときに、如何にして自分の威徳を樹立すべきかを考えながら行った。このような私心と求める心を持っている場合、目的を達成するために、常人の闘争心、政治闘争の手段などを真相説明に持ち込むこともあり、結果的に良い効果が得られないばかりか、失望感や疲労感を強く感じる場合が多い。

 修煉は厳粛なことであり、師父から教えられた法理に対する認識、修煉中の問題にぶつかる時の我々の態度は、すべて我々が厳粛に修煉に対応しているかどうかの反映である。今日になって、大法弟子は皆強いエネルギー場を持っている。求める心があるとき、常人が我々のエネルギー場の中の不純な成分を感じやすい。もし我々の真相説明が相手のためではなく、自分自身のためであることを常人に感じられたら、逆に我々を敬遠することになりかねない。これにより本来救い済度されるべき世人を、逆に落としてしまうことになりかねない。結果は師父が我々に教えてくれた“人心を放下し、世の人々を救い済度する”こととは真反対である。

 法を正すことが最後の時期になっている今、我々はもう一度うちに向けてこの求める心を探して根本から取り除くべきである。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/9/12/83964.html