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労働教養所で虐殺された大法弟子張志彬さんとその遺児

 【明慧ネット2004年9月29日】河北省秦皇島市青龍満族自治県の大法弟子張志彬さんが2000年12月18日に唐山市開平労働教養所で虐殺された。悪徳な警察は自殺だと嘘を言い、家族を脅かした(明慧ネットにより報道されたことがある)

 張志彬さんは32歳の女性大法弟子であり、河北省秦皇島市青龍満族自治県に在住し、青龍満族自治県商業局百貨店の従業者であった。性格は外向的で、生活を愛し、人を助けるのが好きであった。1998年から青龍満族自治県で法輪大法の修練を始めた。1999年7月20日より江沢民政権が法輪功を迫害し始めてから、前後に5回も北京に行き大法を実証し、陳情した。青龍県看守所で4度も不法に拘留された。何の審判手続きもない情況の下で、不法に唐山市開平労働教養所に送られ、労働教養所内で何度も残虐刑による虐待を受けた後、2000年12月18日に迫害されて死亡した。

 張志彬さんが監禁されている期間に、二人の子供は祖母の家で扶養されていたが、張志彬さんが迫害されて死亡したため、当時の77歳の老人は支えきれなくなり、唐山市?南県の祖父やや祖母が青龍県張志彬さんの家に来て、二人の子供を扶養するようになった。

 張志彬さんが青龍県看守所に監禁されている間に、大法を堅持し、“真・善・忍”への信仰を放棄しないため、手足を繋いで手錠に掛ける、掛干、ハ氷などの刑に処せられた。(手足を繋いで手錠に掛ける:使用される刑具の大きさは定められたものではないが、重いほうは15キロにも上る。つまり手を太ももの後ろに手錠で掛けられ、二つの足かせに繋げること。この刑を受けた人は立つことも、座ることもできない。食事および大、小便も一人では済ますことができない。掛干:両手を高いところに手錠でかけられ、足の指先、あるいは片方の足だけが地面に触れることができる。ハ氷:敷地のコンクリートの上に、あるいはコンクリートの上に水をかけて凍らせてから、人を地面に両手を伸ばしてから伏せるようにする。手が凍らせてまっすぐ伸びないため、悪徳な警察がその他の犯人に足で踏むように促す。そのため氷の上に人間の形ができる。悪徳な警察らはこれを楽しみとしていた。時に男の大法弟子が花池のコンクリート台の上に伏させて、ズボンを脱がれたあと、悪徳な警察はそのお尻を革の鞭で打つことがある)

 あるとき張志彬さんおよび他の20数名の同修たちと一緒にハ氷の刑に処せられ、手の指は凍えて真っ白になり、その後に厚い黒色の堅い外皮となって、指のつめと一緒に抜けていた。またあるとき彼女が他の3名の同修と一緒に手足を繋いで手錠にかけられて敷地内の花池を回って、しゃがみながら前にゆっくりと移動するように強いられた。

 唐山開平労働教養所に監禁される時期に、あるとき警察が新たに拉致されてきた大法弟子を連れてきて張志彬さんのいる室内の衛生情況を見に来た。そこで張志彬さんは十数名の大法弟子たちと一斉に“論語”を暗誦し始め、これをもって新たに来た同修を励まそうとした。警察は彼女一人を連れて東に位置する大きな野菜畑に連れて行った。一ヶ月後に初めて彼女を見た。(大きな野菜畑は住んでいるところから遠く離れていて、悪徳な警察が大法弟子を虐待し、木に釣られてめったうちされ、電撃されるときは、他の監禁されている人が見ることも、叫び声をも聞こえない。ただ帰るときは軽症の場合二人に支えられるか、重傷の場合は小さい牢屋に閉じ込められ、他の監禁される者に見られないようにする。監禁中の人が誰かを一人で大きな野菜畑に引っ張られるのを聞くと、みんな人間地獄に行くと感じる)張志彬さんは大法を固く信じる、断食を通して不法な監禁を抗議し、数回も掛干の刑に処せられた。

 2000年12月21日に、親族(姉)が張志彬さんの「首つりによる死亡」の電話通知を受けた。唐山市開平労働教養所で、親族たちの強要の後初めて遺体および死亡現場を見せられた。遺体の顔には首を吊って死亡する症状がない。胸には紫黒い色の痕が広がっており、片方の腕にも大きな黒い痕があった。腰の部分には二つの針の穴がある。首の上にある細い絞められた痕は非常に薄い、パンツには大小便の汚れはない。死亡現場は一人用の小さめな牢屋だった。ただ非常に高いところに紐を掛けることのできる銅線がある。この室内の上にある銅線は使われた様子がない。下の木の板の上に四つの掛け布団が積み重ねられ、その横には張志彬さんの黄色の繻子のついてある綿ズボンが置かれている。何の使われた跡もないほど新しい。そこで親族は悪徳な警察に張志彬さんは何も持ってきてないのに、これらは公安局がこっそり送ってきたのに、こんなに長い時間がたったのに、どこから黄色い繻子の布が着たのか?またそれらの黒い痕および針の穴は何かと聞いた。労働教養所内の者は黒い痕および針の穴は応急手当をする際のものだと言い、新しい黄色い繻子の布については何の解釈もなかった。親族たちは他の牢屋にいる犯人たちに四つの掛け布団があるのかを見に行きたいと言ったとき、労働教養所の者は互いを見ながら何も答えなかった。最後は五万元を払って事を済まそうとしたが、親族たちは同意せず、どうしても張志彬さんの死因の真相を知りたいといった。

 労働教養所は青龍公安局に連絡してから、青龍公安局の政保係の李長興係長およびその他の司法機関の二人と一緒に、銃を帯びて労働教養所に行き、親族たちを一つの部屋の中に閉じ込めて、携帯およびPHSの使用は許されなかった。彼らは「今では国家政府が法輪功を邪教と決め、修練することを許されないから、お前らはどこに行って告訴しても無駄だ」と言い、また親族を一人一人呼び出して恐喝していた。公職の親族(義兄)に「これ以上うるさく言ったらお前を免職する」と言い、また派出所で通勤している親族(子供の二番目の叔父)に「お前までついで来るとは、仕事もうほしくないのか!」と言い、仕事のない親族に対して「お前らもこれ以上うるさく言ったら直接にここで労働教養させてやる、もう帰らせない」と言った。そこで親族たちはもう一度死亡現場を見たいと言い、しかしそこにはもうあの黄色い繻子の布が消えていて、その代わりにシーツから二枚ほどの布が破れてそこに置かれていた。親族たちはその勢いを見て、もうこれ以上なにも言う勇気がなくなった。労働教養所は親族たちが脅かされているのをみて、次の日に(2000年12月27日)三万元を払って、強制的に遺体を火葬した。青龍公安局の者が親族を連れて、骨箱をもって帰ってきてから、その親族の家に柩を安置することを許させなかった。それは大法弟子が追悼会に参加するのを恐れているためである。パトカーが門前をパトロールして見張っていた。ただ骨箱を青龍火葬場に置くことしかできなかった親族たちが家に帰ってから、「もうこれで終わりにしましょう、私たちも危うく労働教養され、帰れなくなるところだった」と言った。

青龍満族自治県商業局 オフィス電話:0335-7862794 
青龍満族自治県商業局 社長電話:0335-7862090 
青龍満族自治県百貨店社長電話:0335-7862716

 張志彬さんの娘の王毓瑾さんは16歳の女の子で、1988年3月7日に生まれ、青龍満族自治県青龍第一中学校を通い、高校一年17クラスになる。品行および学力が共に優秀で、生活の自己管理能力も強い。張志彬さんの息子の王毓典くんは10歳の男の子で、1994年11月25日生まれ、青龍満族自治県青龍第一小学校を通い、5年6クラスになる。成績がいつもトップクラスで、賞状も毎年獲得している。

青龍満族自治県教育局オフィス電話番号:0335-7862413
青龍満族自治県教育局局長室電話番号:0335-7862368
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青龍第一中学校副校長朱子超の携帯:13833522526
青龍満族自治県青龍第一実験小学校オフィス電話番号:0335-7862772




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