日本明慧


利己心と寛容

 【明慧ネット2004年10月2日】

 夏休みになって、姪が私の家に遊びに来た。彼女の性格は外向的で、口が達者で、道理の通らないことを主張し、何事にもでしゃばりたがるのである。その反対に、娘の性格は内向的で、話すことが苦手で、道理があっても言い出せず、時に我慢する傾向がある。一人が剛で一人が柔で二人の関係はまあ大丈夫だが、母親としての私は、娘がたびたび“いじめられる”のを見て、心の中ではどうしても不公平に感じてしまう。時に娘を心配して、今後社会に出た時、同じようにいじめられるのではないか? その数日間はいらいらして気持ちが乱れ、娘の心配をし、法を学ぶ時も心を静めることができなかった。丁度その時、師父の仰る「人にはそれぞれの運命がある」「佛家によれば、常人の中のことは、すべて因縁関係がある」(『転法輪』)。いじめられると徳を得る…などのこれらの法の内涵が脳裏に浮かび上がってきた。しかし、それでも私の目を覚まさせることはなかった。私はこのことにあまりにも執着し、依然として悩み続けていた。急に師父が『真修』の中に「実は、皆さんは常人の中にある名、利、情が傷ついて苦悩を感じる時、既に常人の執着心は放下できていないのです。必ず覚えておきなさい、修煉そのものは苦しいのではなく、肝心なのは常人の執着を放下できないことです。名、利、情を放下しょうとする時にはじめて苦しいと感じるのです」と仰るのを思い出した。

 そろそろ新学期が始まるため、姪は帰って行った。私はなぜ心地がすっきりしないのかについて、心を静めて内に向かって探してみた。自分の娘への情および自分の私心があまりにも重いのに気づいた。もし娘が姪よりも強くて、何事においても先を取るようであれば、私は不公平と感じないのだろうか? 確かに毎日法を学んでいるが、どれくらい頭の中に入っているのだろうか? なぜ矛盾がおきた時に把握することができないのだろうか? たとえ口では何も言わないとしても、しかし、心の中ではいつもすっきりとしない。師父の法と比べてみて、どれほどの差があるのだろうか! 「法を学び、法を得て、お互いに比べながら法を学び精進し、精進しては比べ合い、事事に法に照らして、成し遂げることこそ修煉である」(『洪吟』)。ただ口先ではできると言っても、実際に行動できなくては、それは本当に修煉したとは言えない! その反対に、娘の寛容さ、忍耐強さが非常に良い環境を作り出し、姉妹間になんの矛盾ももたらすこともなく、楽しく遊んでいた。自分のことを考えてみると、かくも長い間修煉してきたが、子供にも及ばない。(時に娘も私と一緒に法を学び、煉功する)、大法弟子としてあるべき基準とはあまりにもかけ離れ過ぎている。今後の修煉の道程で、勇猛邁進し、師父、大法の要求通りに厳しく自分を修め、すべてのよくない心を取り除き、自分を浄め、自分の本来いるべき家に一日も早く帰り着くことである。





(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2004/10/2/85571.html