日本明慧


私は虐待で心神喪失し、労働能力も失った

 文/広東省の法輪功学習者
 
 【明慧ネット2004年9月21日】私は法輪功を修煉した後、思想が昇華され、心も浄化されて、体の不良な状態も良くなった。以前からあった関節痛や健忘症なども、すっかりよくなり、長年のB型肝炎も陽性から正常な状態に戻った。法輪大法に同化した後の喜びを味わい、大法から生命の真の意味を見つけることができた。

 1999年7月20日より、江沢民グループは国家機関を利用して、法輪功と法輪功学習者に対し全面的な迫害を開始し、メディアを操ってデマを飛ばし、法輪功を中傷し、また李洪志先生を個人攻撃した。私達は今までずっと使用していた煉功点(注:公園などに集まり煉功する場所)で煉功していると、警官に強引に追い払われた。法輪功学習者個人の自由が強権、暴政により剥奪された。仕事を持つ学習者は会社から除名され、窮地に追い込まれた。しかし、迫害された法輪功学習者は誰一人として暴力で抵抗したことはなく、平和的、理性的に各レベルの政府機関に陳情に行き、私達の真実の情況を伝えてきた。これはまさに憲法がすべての国民に賦与した権利と義務を行使するものである。

 1999年7月20日、私は広州市政府と広東省政府へ陳情に行った。そこへ着いた時、すでに大勢の学習者が政府の返事を待っているところであった。当日、両政府は長時間待っていた学習者に公平で公正な返事を与えないだけでなく、かえって学習者を追い払い、強引に郊外まで追送し逮捕し、殴られた学習者もいた。私は当日郊外から一人で帰ってきた。

 やむを得ず約半年も沈黙していたが、1999年年末、北京へ陳情に行った学習者が逮捕され殴られ不法に拘禁され、強権、暴政による法輪功と学習者への迫害が、前より一層ひどくなったことを耳にした。私は沈黙できなくなり、北京へ陳情に行く決心をした。駅で乗車券を買い、電車に乗ろうとした時、現地の警官に差し止められ、強引に派出所に連行された。その後家族に家に連れ戻された。一緒に行った学習者の中には強引に留置場に15日間拘禁された人もいた。

 派出所から私を連れ帰り、私の安全をずっと心配していた家族は涙を流した。私は苦痛に耐え、独りで回り道をして遠路はるばる北京へ行った。投書・陳情局は一切受け付けないと聞いたので、天安門へ行った。これも人々が法輪功を理解するよい機会だと思った。天安門安全検査所で、身体検査をされた後、女性係員が私を列から呼び出し、「あなたは法輪功修煉者ですか」と聞いた。彼女の態度が比較的穏やかなので、私も同じく好意的に笑顔で返した。彼女は法輪功学習者に対処する経験を持っているようで、「はい、はい、あなたは法輪功学習者です」と言いながら、私を別の事務室に連れて行って登録するという。ちょうど真相を説明するよい機会だと思い、彼女について行った。その事務室の制服の警官も、まず「法輪功学習者ですか」と聞いてきた。「もし法輪功学習者と認めたら、すぐ現地の派出所に送還され、あるいは拘禁されると聞きましたが、そういうことをしないでください。これは私の人権の自由ですから。でなければ話を断ります」と彼に言った。彼は私の要求を承諾した。彼がどんな身分でも、政府に真相を伝えるルートの一つだと思い、平然として 法輪功学習者であると言った。その後、私は天安門近くの派出所に一日拘禁され、その夜、何人かの広東省の学習者と一緒に広東省駐北京事務所に移された。そこの地下室に何日間か拘束され、また現地(作者の故郷 広東省)派出所の警官に連れ戻された。留置場に入った時、警官は荷物を地面に投げつけた。今度は15日間拘禁された。

 2000年5月、私は上層部の指導者に陳情するため七頁の手紙を書き、それを持って北京へ行った(その邪悪の頭は犯した罪があまりにも大きく、永遠に償い切れないと既にその時知っていた)。北京に着いたが、上層部の指導者に陳情する方法がなく、しかたなく、天安門広場に行き、自分が作った横断幕を開き、強権、暴政が私達の話をする権利を剥奪したと人々に伝えた。警官達は横断幕を奪って、私をパトカーに押し入れ、天安門近くの派出所に拘束した。派出所で私はその手紙を警官に手渡した。その夜、彼らは私を広東省駐北京事務所の地下室に移送した。彼らの非人道的行為に抗議し、釈放を求めた。警官が一枚の紙を持ってきて、書けば陳情に行かせると言ったが、実は車に乗らせるためであった。何人もの男が私を強引に車に押し込んで空港に向かった。二人の警官が現地の派出所まで護送したが、道中私はその警官に法輪大法の真実を伝えた。現地の留置場で15日間拘禁され、その間、私は断食して迫害に抗議したが、彼らは私の手と足を土に埋めた鉄製のチェーンで固定させ、寝かせなかった。

 2000年6月28日の朝、私は天河スポーツセンターのいつも煉功していた場所で煉功しようとしたところ、大勢の警官がやって来て、私を強引に車に押し込んで、天河南派出所に連行し、また車陂派出所に移送した。彼らがいろんな手段で法輪功学習者を迫害するのを見て、彼らに協力せず、名前を言わなかった。48時間名前を言わなければ、私を釈放しなければならないので(ある警官から聞いた)、その2日間、彼らはいろんな手段で、身分を明かすよう強要した。名前が判明した後、天河留置場に移され、いかなる書類もなく、ただ口頭で15日間拘禁すると言われた。

 留置場の中で私は断食し、拘禁された無罪の大法弟子を釈放するよう求めた。警官は私に罪を認めさせるため、彼らの書類に署名させようとしたが、署名しないので、警官が頭を殴って私を地面に倒した。留置場で50数日間拘禁された後、3年の労働教養を言い渡された。警官は法輪功学習者に対してはまったく法律に従わなかった。私は労働教養所に拘禁されたが、当時そこには既に他の法輪功学習者がいた。私たちは朝6時に起きて作業を始め、いつも翌朝の2時まで長時間作業を強いられた。煉功を求めると、両手を手錠で、両足を縄でベッドに固定され、痛くてたまらなかった。大、小便時もベッドから降りることを許されなかった。

 労働教養所の所長は私達法輪功学習者に所謂「上の指示」を読んで、もし法輪功の修煉を堅持すれば、私達を荒れ果てて一軒の家もない西北部に送ると脅かした。その後、また所謂思想の転向を行い、私の思想はすべて乱され、所謂「転向書」を書いてしまった。その後何日間もむせび泣いた。それを破るから返してと要求したが、返してくれなかった。しかたなく「法輪大法に合わないすべての言論、書類を全部破棄し、再び法を正す道に入る」と厳正声明を出した。私は絶食し迫害に抗議すると、警官にベッドに縛られ、仰向けにさせられ、大変な苦痛であった。

 教養所が所謂思想の転向を行った後、見学者がやって来た。労働教養所はいつも長時間作業を要求したが、見学者が来る時は、作業道具、生産材料を隠して、ただ座っているよう要求した。ごまかすことが嫌で、見学者が来ても、私はいつもと同じように作業をしていた。教養所の警官は焦って見学者を連れてこの部屋を慌てて出て行った。教養所で警官は私たちが煉功せず、先生の経文を読まないように囚人に監視させた。従わなければ囚人の刑期を延ばすという。法輪功を理解し、密かに助けてくれる囚人もいた。

 迫害される前、私は法輪功を修煉したため、とても元気で、内心の喜びが言葉や表情に現れるほど充実した生活を送っていた。しかし、迫害のため以前の楽しい安寧な日々を失い、精神的に大きなショックを受け、労働教養所では食事をすることも、働くことも、生活することも正常にできなくなった。教養所の警官は私が精神異常者だと思い、仮放免の手続きをした。

 家に帰された後、母は労働教養所に入る前の元気いっぱいで、活発で可愛いかった娘が、今はぼんやりとして、食事することも働くこともできず、正常な生活などもできなくなり、精神活動がすべて乱されたのを見て、大変心を痛めた。父は私が精神病者だと思い、私を精神病院に入院させた。しかし、精神病院での注射、薬物は私の精神をさらにおかしくさせただけであった。私はいくつもの精神病院に入れられたことがあり、それらの精神病院では薬を無理やり飲まされた。口を開けないと、歯をこじ開け歯が抜け落ちたこともあった。その薬を飲むと、全身に震えがきて、頭がぼうっとなり目が眩んで立っているのも不安定で、目も見えなくなった。全身が痙攣して、病院の風呂場で何回も倒れたことがあった。

 紫金古竹鎮の精神病院に来たばかりの頃、医師は脈をとり「病気ではない」と診断した。しかし、院長は私が病気ではないことを知っていても退院させなかった。またある教授は嘘を言えば、例えば、法輪功は良くないとか、あるいは法輪功の創始者・李洪志先生を罵れば、退院させると言った。そこでは私はベッドに縛られ、強引に注射された。薬を飲まないため、顔、頭に電気ショックを加えられた。夏の夕方の六、七時頃精神病院の医師に寝ろと言われ、眠らないと注射すると脅かされた。

 広州芳村の精神病院で受けた迫害はさらに残酷で、正常に生活できなくなった。そこでも全面的な検査を行ったが、いかなる病気もなく、結果はすべて正常であった。私は家に帰りたいと要求したが、病院側はどうしても許さなかった。主任は、法輪功を修煉しないと保証書さえ書けば、いつでも帰ることができると言った。

 父は私が病院で少しも回復していないのを見て、家に連れ帰ってくれた。今まで受けた迫害により、今年3月頃、正常に話すことも、生活することも、働くこともできない状態がまた現れた。

 私は故郷に帰ることにした。荷物と法輪大法書籍、法輪功の真相資料を詰めたかばんを背負って帰ろうとした。バスターミナルで荷物検査を受けた時、かばんの中の大法書籍や真相資料が見つかり、警官に強引にパトカーに連行された。法輪功を迫害する者は人々に真相を知られたくないため、真相資料を発見するとすぐ逮捕する。派出所で私は一日中苦しめられた。まず「法輪功修煉者か」と聞かれ、私は「法輪功は良いと知っていますが、迫害により今正常に生活できなくなり、修煉もできずとても苦しんでいます」と答えた。当日の夜、戸籍所在地の派出所の私服警官と住民委員会の人が私を迎えにきた。私は家に帰ることを希望し彼らも承諾したが、しかし、彼らは私を騙した。槎頭にある所謂法制学校(法輪功学習者を洗脳させる)に送られた。かばんの中の大法書籍、真相資料、電話帳などが没収された。そこでは、私は部屋の中に閉じ込められ部屋を出ないように、監視員をつけられ24時間監視された。夜、部屋には私ただ一人(毎日24時間部屋は私だけ)なのに、ある日学校側は男性の監視員をつけた。私は彼らの非人道的な行為を指摘し、やっと女性と交代した。私はここが法制学校ではなく、人を苦しめるところだと指摘し、釈放を求めたが、学校側は承知しなかった。そこで自分で部屋のドアを開けようとしたところ、彼女たちは足で蹴ったり、頭を殴ったり、鼻や顔に筆で書いたり、椅子に縛られた時もあった。シャワーを浴びる時、彼女たちは私を囲んで引っ張り回したり、まだ服を脱いでいないのに、シャワーをかけたり、それらにより私は精神状態がおかしくなった。

 姉に学校の中の情況を説明する手紙を書いたが、郵送してくれなかった。精神的な迫害を受けたため、書きたくても書けない時もあった。一ヶ月ほど経って、私はぼんやりとして精神状態がおかしくなった。学校側は家族に迎えに来るようにと知らせた。その日、兄、住民委員、警官一人が迎えに来たが、車は家ではなく芳村精神病院に向かった。兄は私を精神病院に入れることに断固として反対したが、それはただ更なる迫害を加えるだけであると言った。兄はまた母に電話をかけ、母も彼らの非人道的行為に反対した。私は母と電話で「お母さん、家に帰りたい。」とただこの一言しか言えなかった。ほかに何も言えなかった。兄は彼らがいつも私を精神病院に入れようとするのを見て、「あなた達は自分で責任をとりなさい(実は私をこんなにひどく傷つけて、誰が責任を負うことができるのか?)もう連れて帰る」と言った。彼らはやっと私を家に帰らせた。

 私は精神病院がどんなに暗いところであるかをよく知っており、今思い出してまだぞっとする。父が兄のところへ私を迎えに来て半月後、警官はまた親戚やあっちこっちへ私の情況を聞いて回り、「もし治ったのなら、20年余りの労働教養させる」と言いふらした。家族にも安寧な生活を与えない。ある日五人の警官がやってきて私の情況を聞いた。母は「娘は正直で、ただ良い人になろうとし、悪い事も一切しない。今体が回復していないし、労働能力さえ(彼らの迫害のせい)ない。」と言った。

 今家族は私の安全を心配しているし、私も再び監禁されるのをひどく恐れ、落ち着いて働くことができない。迫害により、まだ正常に仕事をする能力は回復していない。以前の私は一家の大黒柱で、家庭の経済を分担し、また経済的に困難な兄弟姉妹をよく助けていた。労働教養所に監禁された後、迫害で正常に仕事をする能力を失い、正常に生活できなかった時もある。しかし、経緯を知らない人は、私が法輪功を学んだからこのような状態になったと言い、時には家族さえ理解してくれず、私が家族を愛さず、仕事をやる気がないと咎めた。法輪功は、弟子に良く煉功し法を勉強し家族を大事にし仕事に励むなど、いつでもどこでも良い人になるように教えている。私も安心して仕事をし、着実な生活をしたいと思っている。今最も基本的な生存する能力さえ失ったのは、誰がそうさせたのか?誰が責任を負うのか? 迫害を加えた者は、私の生命に責任を負うことができるのか?

 私は自分の迫害された真相を書き、彼らの非人道的な行為を暴き出して、人々が彼らの悪行を防ぎ止めることを望んでいる。

“善には善の報いがあり、悪には悪の報いがある!”



(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/9/21/84657p.html