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家族揃って楽しむ中秋の夜、親と離れ離れになった子供達の物語(一)

  【明慧ネット2004年9月28日】“満月の夜、人が帰らない。花の香る所、平和が無い。”中国の伝統的な祝日である中秋節は、家族が揃って楽しむ日である。しかし、江沢民集団の法輪功に対する非法な迫害が5年間も続いている現在、大勢の家庭の親と子が離れ離れになり、大勢の幼い子供達が父母を失い孤児になったことを知っているでしょうか。この非法な迫害の中で父母を失った子供達にとっては、中秋の夜も、今まで経歴した恐怖と絶望の日々とほとんど変わらない。しかし、彼らの苦難な経験は、無関心で麻痺した人の心をも震撼とさせました。

● 恐怖・思い出と逃亡の中で生存した子供達

  “周りの雰囲気は窒息するぐらい静止して苦しい。外では、小鳥の一声さえ聞こえない。部屋の隅隅まで、静寂感と圧迫感に覆われている。この静寂感は私の体をも包み込んで、私をあたかも冥土の底までも引っ張り降ろそうとしている・・・。私は部屋から部屋へ、階段の上から下まで徘徊した。まるで、元々自由だった小鳥が、羽を切り取られたため、絶えず体を重い籠の鉄棒にぶつけているようである。 “私を放して!新鮮な空気と笑い声がある所に行かせて!”私は心から叫んだ・・・ 。この静寂感と恐怖感を忘れる一番いい方法は、睡眠である。時間を殺すことができなり限り、睡眠の助けで生きるしか仕方が無い。”(《アンネの日記》)

 六十年前、ナチスの独裁支配下のオランダで、迫害から逃避するため2年間も屋根裏部屋に身を隠した女の子アンネ・フランクは、1943年10月29日に日記で上述のように自分の心境を語った。半世紀も経った現在、中国では、大勢の子供達がアンネと同じように恐怖と絶望を感じると同時に、父母を失ったり、家庭を失ったりする苦しみを受けている。彼らには、自分が現在経験している痛苦を文字で表す機会がないかも知れない。しかし、彼らの経験を知っている現在、私達は彼らの苦難を無視したり忘れたりする事は絶対にできない。

● 逃亡生活が3年間も続いた5歳の女の子の物語

 5歳の女の子である林慧旋(旋旋ちゃん)は、3年間も父と会ったことがない。旋旋ちゃんは、2歳の時からずっと母および祖父母と逃亡生活をしていた。今年の2月、いつも一緒で暮らした3人の家族がハルピンで洗脳班に拉致されたため、その夜、旋旋ちゃんは一人ぼっちで過ごすしか仕方がなかった。

 旋旋ちゃんの父である林燕清は、元々ハルピン工業大学で博士号をとった研究員として在籍していた。彼は、法輪功を修煉したことで、何回も非法に拉致された。2003年1月、林燕清は真・善・忍の信仰を堅持し真相を伝えたことで、秘密裏に3年間の労働教育という判決を受けた。現在、彼は福建省福州市魯江強制労働所に監禁されている。

 旋旋ちゃんの母である徐蕾は、元々北京中国建設銀行の鉄路支店で財務副課長として在籍していた。彼女も、真・善・忍の信仰を堅持したことで、2000年の末に辞職しなければならなかった。旋旋ちゃんの祖父母も法輪功学員であったが、迫害を受けなかったため、過去三年間、3人の大人は??ちゃんを連れて流浪生活を続けた。今年の2月19日、いつも一緒だった母と祖父母が、ハルピンで公安局の警察に非法に捕まえられ、北京の洗脳班に送られた。そこで、5歳の??ちゃんは母とも離されて、他の親族が面倒を見ることになった。

● 中国の“アンネ・フランク”

 劉小天は、16歳の時、麻袋ばかり積んである人がいない大倉庫の中に身を隠した。この一年間、彼は毎日恐怖・焦り・悲しみ・孤独感に覆われていた。父母のことが心配でおじさんに聞いても、おじさんはまだ行方不明であるというばかりであった。この世間と離れて一人ぼっちで生活したこの一年間、彼には心を支える言葉や面倒を見てくれる人もいなかった。あるのは、寂しくて長い夜と悲しみだけであった。彼は、毎日怖い夢を見て驚いて目を覚ました。また、恐怖・焦り・悲しみ・孤独感に襲われて泣いていることが多かった。

 劉小天は1985年12月生まれで、中国の湖南省永州市に住んでいた。父である劉慶は、永州市芝山区郷政府幹部として在籍していた。母である楊玉燕は、元冷水浜区上河紡織場で工人として在籍していた。2001年より前、劉小天には幸福な家庭だった。家計はそんなに豊かではなかったが、一家は仲がよく暖かい家庭だった。劉小天は、地元の中学校に通い、何の心配もないごく普通の中学生生活をしていた。

 1999年に入ってから、劉小天の父母は法輪功を修煉し始めた。修煉してから、二人は“真、善、忍”に基づいて良い人であるように自分を律し、すべてにわたってまず他人の為にと考えるようになった。しかし、小天が16歳の時、彼の家庭は最悪な災難に遭った。2001年11月23日(金曜日)の午後、小天が学校で勉強しているところへ、警察がやって来て、班主任に彼の父母が捕まえられたことを話し、小天を捜した。小天は凄く怖くて、何も持たずに学校から逃げ出し、隣家の物置場に避難した。彼を見つけた心善い隣人は、彼を収容してくれた。しかし、2,3日後、7,8人の警察が隣家にやって来て、小天を発見しても言わないと罰を受けると脅かした。隣人のおじさんはお金を出して、小天を福建省に住んでいる唯一の親族であるおじさんに所に行くようにした。迫害を避けるため、小天は世間と断絶された大きい倉庫の中で、一年間以上も一人ぼっちで過ごした。その後、おじさんは自分の能力では絶対返すことができない程のお金を借りて、小天をデンマークに避難させようと人に頼んだ。

 2003年7月1日、デンマークに連れて来られた小天は、コペンハ−ゲン駅で捨て置かれた。警察を見た瞬間、小天は怖くて体がぶるぶる震えた。恐怖の中、難民所では話も支離滅裂で履歴書さえ正確に書くことができなかった。その時、彼の唯一の望みは、“中国に返還しないで、中国の警察に渡さないで”ということであった。

 デンマークに着いて、中国のおじさんと連絡を取った小天は、初めて自分の父母が2002年の4月、すなわち父母が捕まえられてから5カ月後、迫害されて死亡したことを知った。また、おじさんが警察に“私は死んだ小天の父母と関係がない”と言う書類に強制的にサインさせられたことや、小天の行方がわかったら必ず通報しなければ全家族にも罰があると脅されたことも知った。

(つづく)

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2004/9/28/85281.html